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小説『八月の少年』
1945年8月5日から6日にかけてアインシュタインが見た夢の話です。

PDF版は縦書きで読めます。
誤字、脱字等ありましたら、ご連絡頂けると幸いです。

目次

(一)夜明けの夢
(二)マンハッタン駅
(三)マンハッタン急行
(四)ひまわり畑駅
(五)稲妻
(六)ノイズ
(七)白い家
(八)暗号
(九)波音
(十)雨宿り
(十一)せみしぐれ駅
(十二)山奥
(十三)電話ボックス
(十四)聖夜
(十五)スノーマン
(十六)ロスアラモス
(十七)サンタクロース
(十八)tsuyu
(十九)戦場
(二十)夕映え駅
(二十一)黄昏
(二十二)1945年駅
(二十三)Tokyo
(二十四)人波駅
(二十五)桜
(二十六)街灯り駅
(二十七)ある夢
(二十八)離脱者
(二十九)ほたる駅
(三十)線香花火駅
(三十一)海鳴り
(三十二)夜市駅
(三十三)はーばーらいと駅
(三十四)天の川駅
(三十五)幻のテニアン駅
(三十六)鳴かない蝉
(三十七)お化け屋敷
(三十八)最終会議
(三十九)夜明け前1
(四十)夜明け前2
(四十一)夜明け駅
(四十二)尾瀬駅
(最終章)朝顔駅



   八月の少年

 That we are is the certainty that, we have been and will be.(Lafcadio Hearn)
 
 (一)夜明けの夢

 1945年8月5日。
 夜明けに夢の中で歌を聴いた。それは一度も耳にしたことのない何処の国のものとも知らない遠い夢の彼方より響いてくる心地良い調べ。気が付くと歌は止み、目の前にひとりの少年が立っていた。この子が歌っていたのだろうか?少年はわたしを見つめていた。わたしはどうして良いかわからず、黙って少年を見つめ返した。沈黙が続いた。それは永い永い静けさだった。
 突然涙が少年の頬をこぼれ落ちた。それは銀河の瞬きの中からひとつの星がこぼれ落ちるかのように。驚いたわたしは少年に声をかけた。
「どうした坊や?」
 けれど返事はなかった。
「なぜ泣いているのだ?」
 少年はけれど何も答えず、相変わらずただ黙ってわたしを見ていた。仕方なくわたしも再び口を閉ざし少年を見つめ返した。どれ位時が経ったろうか。不意に少年がつぶやいた。その声は震えていた。
「いたい」
「何?」
 驚いて問い返した。
「いたい」
「何処が?」
「あした」
「明日?」
 沈黙。
「明日がどうしたというのだ?」
 けれど、沈黙。
「明日が痛いとはどういうことだね、きみ?」
 もどかしさの余りついわたしは大声で叫んだ。夢だというのに。しかも涙をこぼし怯える少年に向かって。
「泣いてばかりいちゃわからんだろう?ちゃんと説明してごらん」
 けれど少年は泣くばかりだった。またしばらくして少年はつぶやいた。
「よる」
「夜?」
「よるがあけたら」
「夜が明けたら?」
 少年の声はけれどまた途絶えた。それからしばらく少年は泣き続けた。ぼろぼろ、ぼろぼろ。空を見上げると幾千の星が銀河の中に瞬いていた。夜明け前の銀河だ。
「一体どうしたというのだ坊や?さっきからどうしてそんなに泣いているのだ?まるで地球上の海がすべて枯れ果てるほど。何がそんなに悲しいのだね?」
 わたしはしゃがみ込み少年の涙をハンカチで拭ってあげた。
「困ったねぇ。どうすればいいのだ?」
 と突然少年が叫んだ。
「マンハッタン」
「え?」
 それは何かの呪文のように。
「マンハッタンきゅうこうテニアンゆき」
「なに?何だね、それは?」
 気付いたら少年はわたしへと手を差し伸べていた。
「ん?」
 少年はじっとわたしを見ている。
「どういう意味だね、坊や?」
 けれど少年は答えなかった。
「もしかして、わたしを何処かへ連れていきたいのかね?」
 すると少年はうれしそうに頷いた。初めて見る少年の笑顔だった。その微笑みに吸い込まれるようにわたしは思わず手を伸ばした。まだ汚れを知らない少年のその白い手へと。何処からか再びあの歌の調べが流れ出し、わたしの手が少年の手に触れようとした瞬間。

 不意に目が覚めた。
 ああ夢か。
 何という悲しい夢。何て悲しい目をした少年だったろう。わたしは少年を夢の中に一人置き去りにしてきた気がしてならなかった。少年はじっとわたしを見ている、今もあの夢の中でひとり。遠い街の海の潮騒が聴こえて来そうな程静かな夜明けだった。耳にはあの歌の調べが残っていた。今にも消えてしまいそうなはかない調べ。
 もうすでに朝の陽が差していた。暑い夏の一日の始まり。額の汗を拭いながら、少年の最後の言葉を思い出しわたしはつぶやいた。

 マンハッタン急行テニアン行き。

 
 (二)マンハッタン駅

 その日仕事を終え大学の研究室を出ると、わたしはプリンストン駅へと向かった。プリンストン駅からプリンストン・ジャンクション駅を経由してマンハッタン駅に行くために。
 マンハッタン急行テニアン行き。
 わたしはそれを確かめたかった。
 プリンストン駅で列車を待っている間、わたしはホームのベンチに腰を降ろした。夏の昼下がりの風が汗ばむわたしの頬を撫でていった。わたしはうとうと眠気を覚えた。ホームに列車が入ってくる音が聴こえる。
 乗らなければ。わたしは襲い来る眠気の中でそう思った。
 マンハッタン急行テニアン行き。
 そうだ、わたしはそれを確かめるため、今ホームに入って来た列車に乗らなければ・・・。

 プリンストン駅からプリンストン・ジャンクション駅を経由してわたしはマンハッタン駅へと向かった。マンハッタン駅に着いたのは夕方だった。
 マンハッタン急行テニアン行き。
 果たしてそんな列車あるのだろうか?それともただの夢?
 マンハッタン急行テニアン行き。
 しかしそんな列車聴いたこともない。やっぱり夢だ。夢に決まっている。夢の中の戯言だ。
 マンハッタン急行テニアン行き。
 ばかばかしい。わたしはこんな所まで来て一体何をしているのだ?さっさと家へ帰ろう。
 わたしは引き返す決心をし帰りの切符を買おうと駅の改札を出た。駅の前は夕方のラッシュの人波で溢れていた。プリンストン駅までの切符を買おうとしたその時、けれど喧騒の中から何かが聴こえてきた。語りかけるように。
 何だ?もしかして?
 あの歌だ。あの夜明けの夢の中で流れていた歌。歌の調べに導かれるように気付いたらわたしは駅員を呼び止めていた。駅員が振り向いたその瞬間、魔法が解けるように歌の調べは止んだ。
「あぁもし」
 歌に取り残されたわたしは恐る恐る駅員に話しかけた。
「変なことを聴いて申し訳ないのだが」
 わたしの声は緊張で震えていた。
「はぁ?」
「実はその、マンハッタン急行テニアン行きという列車」
 と言いながら駅員の様子を見た。
「それがどうかしましたか?」
 ん?
「切符をお求めですか?」
「え?」
「切符ですよ、あなたが言われた列車の」
 びっくりして駅員の顔を見た。冗談に付き合っているわけでもあるまい。
「ではあるのかね?そんな列車が」
「勿論ですよ、お客さん」
 駅員の言葉にわたしは言葉を失った。駅前の騒音が消えた気がした。ラッシュアワーの人波が駅員とわたしの周りをいつ終わるともなく流れてゆく。
「もしかしてあなたですか?」
 駅員の言葉に我に返った。
「え?」
「あなたですね、お客さん」
 駅員の顔が和らいでゆく。
「何のことだね?」
「切符ですよ。お預かりしていた切符」
「切符?」
 何のことだ?
「あぁ良かった。朝からずっとお待ちしておりました」
 それなら人違いだ。そんな切符など知らんぞ。けれど駅員の次の言葉にわたしはまたしても言葉を失った。
「男の子から頼まれた切符ですよ」
 男の子?男の子、少年、坊や、夢の中の?まさか。その時遠く何処からかあの夜明けの夢の歌がまた聴こえてきた。何処からだ?辺りを見回したがわからない。一体何処から聴こえてくるのだ?他の人、この駅員にも聴こえているのか?
「きみ何か聴こえないかね?」
「何かと言いますと?」
「歌だよ」
「歌?わたしには何も聴こえませんが」
 何、ではもしかしてわたしにしか聴こえないのか?一体何がどうなっているのだ?
「男の子と言ったね?」
 わたしは恐る恐る駅員に尋ねた。
「詳しい事情を説明してくれないか?」
 わたしの問いに対する駅員の答えはこうだ。
「それは夜が明けてすぐのことでした。何処からともなくひとりの男の子がやって来て、夕方ひとりの紳士がこれを取りに来るから渡してほしいと、一枚の切符を置いていったのです。何が悲しいのかその子は泣いていました。あまりに辛そうなので訳を尋ねようとしたのですが」
 泣いていた。男の子が。
 しばし目を閉じざわめく駅の人波の中微かに聴こえ来るあの歌に耳を傾けた。何ということだ、わたしはまだ夢を見ているのか?いやそんなはずはない。目を開き駅員に確かめた。
「切符とはマンハッタン急行テニアン行き?」
「勿論」
「おお」
 その時別の客がやって来て駅員を呼んだ。駅員は急かすようにわたしを見た。
「あなたで間違いありませんね?それではお渡ししますよ」
 けれどすぐには受け取れなかった。
「待ってくれ」
 これは何かの間違いだ。こんなことあるはずがない。やっぱりわたしはまだ夢を見ているのか?
 と突然その時わたしの脳裏にあの夜明けの夢の少年が現れた。夢から醒める直前にわたしに手を差し伸べたあの姿で。
 坊や、やっぱりこれはきみなのか?
 脳裏に浮かぶ少年に向かって問いかけると、少年はうれしそうに笑い返した。それからスーと少年の面影は消え歌の調べも止んだ。目の前には切符を差し出す駅員が立っていた。まるでわたしへと手を差し伸べた少年のように。
「それでは仕方がない」
 とうとうわたしは観念し、その切符を受け取った。
 切符にはこう書かれていた。
 "Manhattan express August 6th,1945"
 6th、6th?待て、今日はまだ5日のはずだぞ。印刷ミスか?行き先はそしてこう記されていた。
 "Oze"
 Oze?
「何だね?この切符は」
 尋ねようとしたが駅員はもういなかった。駅員はわたしから離れ別の客の応対をしていた。
「おい、きみ」
 切符を握り締め立ち尽くすわたしの耳に、駅の放送が聴こえてきた。
『マンハッタン急行テニアン行き、間も無く最終列車の発車時刻でございます』
 何、最終だと?まだ夕方ではないか。まだ乗るかどうかさえ決めていないのに。
『ご乗車の方はプラットホームへお急ぎ下さい』
 おいおい、どうすればいいのだ?
 迷いながらもわたしは急き立てられるように改札へと向かった。

 
 (三)マンハッタン急行

 駅の改札を抜けるとラッシュの人波の中マンハッタン急行のホームへと急いだ。ホームへ向かうにつれ徐々に人波は薄れ、ホームの階段を上る時にはわたしひとりになっていた。息を切らしプラットホームに上がるとそこにも人影はなかった。
 どういうことだ?あたりはしんと静まり改札前のざわめきも今は遠い夢のように思えた。列車はぽつりと退屈そうに佇んでいてとても発車時刻が迫っているとは思えない。
 駅員は?ホームの端から端まで見回してみたが誰もいない。いつのまにか宵闇が押し寄せホームの灯りへと一斉に火が灯った。
 どうなっているのだ?運転手もいない。わたしは先頭車輌から最後尾の車輌まで歩いた。列車のドアは開いていた。わたしは軽い気持ちで列車に一歩足を踏み入れた。静かだ。誰もいない。本当に発車するのか?わたしは列車に乗り込み車内を見回した。
 するとどうだ!突然列車のドアが閉まり汽笛が鳴った。
 なに?まさか発車するのか?
 おい待ってくれ。
 けれど列車は動き出した。
 おい誰か止めてくれ、誰か。
 わたしは必死で列車のドアを叩いた。けれど列車は黙々とマンハッタン駅のホームを流れてゆく。一体どういうことだ?まるでわたしが乗るのを待っていたかのようではないか。わたしは成す術もなくただ流れ去る駅の灯りをぼんやりと眺めていた。
 ようやく落ち着きを取り戻した。再び車内を見回してみたがやはりわたし以外誰もいなかった。立っているのに疲れ近くのシートに腰を下ろした。外を見た。景色は闇で覆われていた。
 ん?夜だとしても余りに暗すぎる。街の灯りひとつ見えないではないか。そうかトンネルに入ったのだな。いつのまに?
 わたしは暗いガラス窓を見つめた。そこにはわたしの顔が映っていた。その顔は不安そうにわたしを見ている。まるで今にも泣き出しそうな少年のような顔をして。少年?ふと窓ガラスに夢の中の少年の顔が映った気がした。
 これで良かったのかい、坊や?
 窓ガラスの自分の顔につぶやいてみた。少年へと語りかけるように。そうだ!もしかすると少年もこの列車に乗っているかもしれない。ゆっくりと目を閉じた。この列車はこれから一体何処へわたしを連れてゆこうというのだろう?
「もしかして、わたしを何処かへ連れていきたいのかね?」
 夜明けの夢の中でわたしがそう尋ねた時、少年は確かにうれしそうに頷いた。
 坊や、きみは一体わたしを何処へ連れてゆくつもりなのかね?

「ひまわり畑」

「何?」
 突然声が聴こえた。驚いて目を開けると目の前に車掌が立っていた。おぉ車掌がいたのか!
 一安心したのも束の間車掌の奇妙な姿に驚かされた。車掌はなぜか自分の顔全体を帽子で覆い隠していたのだ。そんな格好でものが見えるのか?
「次は、ひまわり畑駅」
 車掌がアナウンスした。駅?それが駅の名前なのか?通り過ぎようとする車掌をわたしは急いで呼び止めた。
「きみ、この列車は」
 わたしが尋ねようとすると車掌はそれより早く答えた。
「確かにマンハッタン急行テニアン行きで御座います」
 何?どうしてわたしが尋ねようとしたことがわかったのだ?何て奇妙な車掌だろう。
「そうか、ならいいのだが」
 それからわたしは切符のことを思い出し、歩き去ろうとする車掌を再び呼び止めた。わたしはマンハッタン駅の駅員から切符を受け取って以来ずっとその切符を手に握り締めていたのだった。
「この切符でいいのかね?」
 面倒くさそうにわたしのシートまで戻ってきた車掌に切符を見せた。見せたといっても相手に見えているかはわからない。
「この行き先は何だね?それに日付も間違っている。今日はまだ」
 車掌はけれどまた最初の質問の時と同じように後に続くわたしの言葉を遮って答えた。
「心配いりませんよ、お客さん」
「しかしきみ」
 車掌は急いでいるのか落ち着かない様子だった。
「その切符でちゃんと目的地まで行けますから」
「本当かね?」
「ええ」
「ではいつ頃着くのかね?何しろ初めて乗る列車でな」
「いつ頃と言われましても」
「わからないのかね?」
 本当に車掌なのか、それとも見習い?他に誰かいないのだろうか?
「どうしてわからないのだね?」
「それは」
「それは?」
 わたしは返事に困る車掌を問い詰めるように尋ねた。すると車掌はいきなり怒ったような声で言った。
「いずれにしろ、わたしたちはもう引き返せませんから」
 引き返せない?何のことだ?
「なんだね、いきなり」
 まさか。まさか帰りの列車がないとでも言うのではあるまいな?
「引き返せないとはどういうことかね?きみ」
 さらに問い詰めるわたしに車掌は叫ぶように答えた。
「もう引き返せないんですよ。もう、なにもかも」
 なにもかも。
 しばし沈黙がわたしたちの間に落ちた。
 車掌の声は震えていた。そしてそれはどこか投げやりな絶望的な感じがした。どうしたのだ?わたしが何か気に障ることでも言ったのか?
 車掌はけれどすぐに落ち着きを取り戻した。
「失礼いたしました」
 車掌は一礼すると再び歩き出した。
「おい待ってくれ、きみ」
 けれど車掌はもう振り返らなかった。わたしも疲れていたせいかもうそれ以上質問する気になれなかった。その代わり叫んだ。
「きみ。少年を見かけたら教えてくれないか」

「次はひまわり畑駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」

 
 (四)ひまわり畑駅

 闇の彼方に光が見えた。列車はまだトンネルの中を走り続けていたのだ。なんと長いトンネルだったのだろう、ようやく出口か。段々と明るさが増してゆく。それにしても随分眩しいまるで昼間のような光、おおっ。
 そして列車はトンネルを抜けた。するとどうだ、突然青空が広がり眩しい8月の光があたり一面に差した。照りつける夏の午後の日差し。何という眩しさだ。わたしはつい手で目を覆った。気付くと列車は長い長いひまわり畑の中を走っていた。
 しかし待てよ?列車に乗ったのは宵の始め。あれからまだわずかトンネルひとつ抜けただけではないか。なのにこの眩しい午後の日差しは何だ?一体あれからどれだけの時が流れ今は一体何時だというのだ?わたしは急いで懐中時計を取り出した。
『8時15分』
 何?
 けれどよく見ると時計の針は止まっていた。故障か?妙だな、今まで一度も止まったことなど無い時計が。一体どうなっているのだ?何もかもがおかしい。何もかもが、わたしは。
 もう引き返せないんですよ。
 ふと車掌の言葉が浮かんだ。なぜだろう?窓に差し込む8月の光の中に目を閉じて、気を落ち着かせるように一日の出来事を思い返した。
 夜明けの夢、少年、マンハッタン駅の駅員、切符、プラットホーム、突然動き出した列車、そして車掌。長い長いトンネル。ひまわり畑。
 まるでまだ夢を見ているようだ。本当にこれは現実なのか?列車の音は確かに響き日差しは眩しく、暑さに再び目を開くとそこには鮮やかなひまわりの波が続いている。もう一度止まった針を確かめながら懐中時計をしまうと、わたしは再び切符を眺めた。切符はすっかり汗ばんでいて印刷された文字は薄れていた。
 "Manhattan express August 6th,1945"
 "Oze"
 わたしは大事に切符をズボンのポケットに入れた。
 もう引き返せないんですよ。
 いずれにしろ、わたしたちはもう引き返せませんから。
 またもや車掌の言葉を思い出した。わたしたちはもう引き返せない。そうだ確かにそうなのかもしれないね、坊や。Oze。Ozeとは?きみはこれからわたしを、もう引き返せないどんな場所へ連れてゆこうというのだね?

 気が付くと列車は止まっていた。ひまわり畑に囲まれた駅のプラットホームだった。あたりに人影はなかった。列車のドアが開く。蒸し暑い真夏の空気が押し寄せる。誰もいないプラットホームの端から端へと太陽に向かうひまわりたちを揺らしながら風が吹いてゆく。
「しばらく停車いたします」
 再び車掌だった。列車を一巡りして折り返してきたのだろうか?暑いだろうに相変わらず帽子で顔を覆い隠している。
「何、しばらくとはどの位だね?」
「時間は決まっておりません」
「何?それはまた随分のんびりした話だねぇ」
「ええ発車前にはベルが鳴りますので」
「そうか」
「それまではホームに降りて、ゆっくり景色などお楽しみ下さい」
 景色を楽しめか。まったく暢気な話だ。列車の窓から駅の看板を眺めた。そこには確かに『ひまわり畑駅』と書いてある。何と妙な駅の名だろう。ふと思い出しわたしは駅員に尋ねた。
「ところできみ、少年を見なかったかね?」
「少年?」
「この列車に乗っていると思うのだが?」
「あ、いいえ。少年など」
 わたしの問いに何を慌てたのか、車掌は急にホームへと降りた。が降りたのにはそれなりのわけがあったようだ。
 駅(とはいっても無人駅らしく駅員はいない)の改札の前に一人の男が立っていた。車掌は暑さの中帽子を押さえながら改札まで走り男の切符を検札した。検札が済むと車掌は何処へともなく消え、男だけがホームへとやって来た。わたしの車輌の前を通り過ぎた後、再び引き返して来た男は結局わたしの車輌に乗車した。何処に座るのだろうと眺めていたら、何と!男はわたしの向かい側に座った。妙だな他に客はいないのに、なぜわざわざわたしの前を選ぶのだ?他に空いたシートはいくらでもあるだろうに。しかも男はシートに腰掛ける時わたしを無視するかのように一言の挨拶もしなかった。
 男がわたしを無視したように、わたしもまた男を無視することにした。わたしは窓にもたれひまわりを眺めた。ひまわりたちは気持ちよさそうに風に吹かれわたしを手招きするように揺れていた。こうやって無愛想な男と向かい合っていても面白くない。よし車掌が言ったようにホームに降りてみるか。そして列車に戻ったら男から離れたシートに座ればいいのだ。そうしよう。わたしは立ち上がった。けれど男はやはりわたしに対して何の反応も示さない。何という、完全にわたしを無視しているのだな。それともまさかわたしが見えない?
 ふと気になって男を見た。その瞬間わたしは自分の目を疑った。
 おお!
 その男はなんと、学者仲間である科学者Sだったのだ。まさか、どうしてこんな所で。なぜすぐに気付かなかった?何をぼんやりしていたのだろう?わたしは興奮を覚えた。彼はまだこっちに気付いていないようだ。早速声をかけた。
「きみ」
 ん?
 けれど反応がない。聴こえなかったのか、それともまさか人違い?今度は慎重に話しかけた。
「もし、失礼だが」
 咳払いもしてみせた。けれど本当に反応がない。どういうことだ?
「おい、きみ。わたしの声が聴こえないのかね?人を無視するのもいい加減にしたまえ」
 とうとうわたしは怒鳴った。けれどやっはり反応はなかった。もしかすると本当に聴こえないのか?そしてやっぱり見えないのではないか、わたしのことが?不安になったわたしは今度は彼の肩を叩いてみることにした。彼の肩にゆっくりと手を置いて。しかし。
 え、何?
 確かに手を置いたつもりだった。確かにだ。ところがなんと彼の肩に触れたはずのわたしの手は彼の肩をすり抜けていった。まさか。体中に戦慄が走った。その時背後からひとつの声がした。

「ここは、過去の時間駅なのです」
 振り向くと車掌が立っていた。
「何?」
 何だ、過去の時間駅とは?
「そして彼はこの時間駅の住人」
「ちょっと待ってくれ。きみは何を言っているのだ?」
 わたしは怒鳴るように言った。けれど車掌の声は冷静だった。
「つまり時間駅の異なる彼は、わたしたちとは接触できないのです。たとえそれがあなた自身だったとしても」
「?」
 わたしは車掌の言うことが全く理解出来ず、ただポカーンと口を開けたまま車掌を見ていた。
「きみ、もう少しわたしにわかるように説明してくれないか?」
「ええ、そうですね。何というか」
 車掌は困ったように(と言っても顔の表情がわかるわけではない)わたしを見つめ返した。
「もう少ししたら、わかりますよ。この列車に慣れれば」
 そう言い終わると車掌は無責任にも歩き出した。
「おい待ってくれ」
 とっさにわたしは車掌の肩を掴んだ。掴めた、確かに車掌の肩はちゃんと。けれど何とそれは細い肩だろう。まるで子どものような肩だった。
「何だかわけはわからんが、つまりこういうことかね?」
 車掌の肩から手を離しわたしは再び科学者の方に目を移した。
「ここにいる彼は、過去の人間だと?」
「その通りです」
 うーん。
 沈黙するわたしを置いて、再び車掌は歩き出した。
「待ってくれ、もうひとつ教えてくれ」
「何でしょう?」
 車掌は歩きながら答えた。
「ここが過去の時間駅だというのなら、そして彼がこの時間駅の住人なら。わたしはいつの住人なのだ?そしてきみは?」
 車掌は立ち止まり、じっとわたしを見つめた。帽子に隠れてはいるが確かにその目はまっすぐにわたしを見ていた。
「あなたは」
 車掌はゆっくりと答えた。その声はなぜか震えていた。
「1945年8月6日8時15分駅の」
「8時15分?」
 わたしは驚いて車掌の言葉を遮った。(その時わたしは時刻にばかり囚われ、日付への注意を怠ってしまったのだが)
「8時15分だと。何だね?その時刻に何か特別の意味があるのかね?見たまえほら、この時計も8時15分で止まっている」
 わたしは車掌に止まった懐中時計を見せた。けれど車掌は少しも驚かなかった。
「わたしも同じです。わたしもあなたと同じ8時15分駅の住人。なぜならわたしたちは」
 けれど車掌の声は詰まった。それから突然の嗚咽。
 どうした、なぜ泣いているのだ?一体どうして?
「きみ」
 できるなら車掌の肩を今度はやさしく掴まえてあげたかったのだが、わたしは小さく声をかけるにとどめた。車掌は健気に言葉を続けた。
「なぜならわたしたちは、そこへ向かっているのです」
 そう言い終えると車掌は静かに歩き出した。
 そことは何処だ?
 けれどわたしはもう何も聴かず車掌の背中を見送った。
「そうか、ありがとう」
 そして沈黙が落ちた。わたしはシートを離れ列車のドアの前に立った。気分が重かった。ひまわりが風に揺れていた。
 そうだ、ひまわりを眺めようとホームに降りるつもりだったのだ。どうしよう?けれどそう思った瞬間突然空が翳った。青空が消え照り付けていた8月の太陽が灰色の雲に覆われた。

「そろそろ発車の時刻でございます」
 車掌の声が聴こえた。

 
 (五)稲妻

 発車のベルが鳴った。と同時に風が止んで揺れていたひまわりたちが一斉に止まった。動きが消えたひまわり畑の景色はさながら一枚の静物画だった。ベルが鳴り終わり列車のドアが閉まった。すると待っていたかのように曇った空から雷鳴がとどろき、それを合図に雨が降り出した。雨はすぐに豪雨となって地上を襲った。雨に打たれひまわりたちが濡れてゆく。何という雨、通り雨か?わたしはドアの前に突っ立ったままドアを叩く雨を見ていた。列車は雨の中を走り出しひまわり畑駅を後にした。
 しばらくドアにもたれていたわたしはシートに戻った。そう、わたしが座っていた彼のいるシートの向かい側へ。彼とわたしは再び向かいあった。時間駅の異なる彼とわたし。
 ひとつの稲光りが列車の窓ガラスを叩くように走った。その光は一瞬彼とわたしの顔を照らした。と突然窓を叩く雨の音にまじって声がした。
「それでは署名を」
 ん?
 わたしは一瞬ドキリとした。車掌の声ではない。では誰が?まさか?わたしは恐る恐る彼を見た。すると彼もわたしを見ていた。
 え?
 やはりその声は彼のものだった!彼がわたしに話しかけていたのだ。なんだ、話せるではないか。どういうことだ?車掌のやつ、過去の時間駅などとわけのわからんことを言ってわたしをからかったのか?
「それでは署名を」
 彼は同じ言葉を繰り返した。署名?何のことだ?わたしが尋ねるより早く彼はわたしに一通の手紙を差し出した。すると言葉が、わたしの唇から無意識にこぼれた。
「わかったよ」
 ?
 答えたわたしが戸惑っていた。なぜ?わたしは何もわかっていないぞ。わたしは流れのまま彼の差し出す手紙を受け取った。ちゃんと受け取れた。わたしは手紙を開き中を見た。
 その瞬間わたしは凍り付いた。彼の言う署名の意味がわかった。
 その手紙とは、もう6年以上前わたしが署名し彼がアメリカ合衆国大統領へと送った手紙だったのだ。手紙、それはウランによる連鎖核反応とそれを利用した新型爆弾の可能性について書かれた。
 気付いた時、わたしは手紙への署名を終えていた。過去の時間駅。わたしは近くに車掌がいないか探したがその姿はなかった。もしかして今わたしは過ぎ去ったあの日の中にいるのかもしれない。彼とこの手紙について話し合いわたしが署名した、あの日。今この列車は過去の時間駅であるあの日を通過しているのだ。
 窓を見た。雨に濡れたひまわり畑のひまわりたち。わたしはふと彼に話しかけた。緊張した面持ちの彼を笑わせたくて。
「きみ、ひまわりの絵を描いてもいいかね?」
「え?」
 彼は驚いてわたしを見た。
「いやちょっと、この手紙の最後の所にね」
 けれど彼は答えに困ったように顔をこわばらせた。どう答えたらいいのかわからないのだろう。当然のことだ。あの日わたしたちの会話の中にこんな台詞はなかったのだから。戸惑う彼が気の毒になってわたしはすぐに打ち消した。
「いやジョークだよ」
 それと同時に彼へと手紙を返した。その瞬間わたしはわたしの中から何かが失われてゆくのを感じた。それはすでに過ぎ去ってもう二度と取り返すことの出来ない。わたしは試しに彼の持つ手紙に手を伸ばしてみた。けれどわたしの指はもうそれに触れることはできなかった。
 もう引き返せないんですよ。
 そうだ。確かにもう引き返せない。
 深く目を閉じ祈るようにつぶやいた。突然雨がぴたりと止んだ。わたしの耳には列車の汽笛の音だけが静かに響いていた。

「どうかなさいましたか?」
 車掌の声だった。驚いて目を開けると彼、科学者Sはいなかった。今まで彼が座っていたそのシートに。彼は?わたしは慌てて周りを見回したが彼の姿はなかった。何処に行ったのだ?わたしは急いで車掌に尋ねた。
「彼は?ここにいた彼は何処に行ったのかね?別の車輌?」
「あの方ですか?」
 車掌はゆっくりと答えた。
「あの方なら、たった今下車されましたよ」
 下車?
 どうやって?走る列車の窓から飛び降りたとでも言うのか?
 けれどもうわたしは何も尋ねなかった。そう、確かに彼は降りたのだ。彼が下車すべき彼が下車しなければならない時間駅で降りたのだ。わたしたちが生まれ、そしてやがてわたしたちが死んでいかなければならないように。ただ、それだけのことだ。

 しばらくぼんやりと窓を眺めた。ふいに長く長く続いていたひまわり畑の波が途絶えた。
 おや。
 わたしの今の唯一の希望とも思えたあのひまわりたちの生命にあふれた黄色い波、それが。わたしは言いようのない不安に襲われた。

 
 (六)ノイズ

 突然激しい爆発音が聴こえた。列車が大きく揺れた。何だ?と思う間もなく辺りがまっ暗になった。どうしたのだ、またトンネルに入ったのか?
「おーい車掌はいないのか?」
 大声で叫んだが答えはなかった。ただ爆発音だけが絶えず暗闇の中に響いている。やがて爆発音に混じって何かノイズのようなものが聴こえてきた。何だこれは?耳が痛くなった。しばらくするとノイズに混じって別の何かが聴こえて来た。今度は何だ?
『ド』
 耳を澄ませた。
 ん?
『ド』
 どうやらそれは人の声だった。車掌か?いや、車掌の声ではない。何と言っているのだ?声は叫んだ。
『ド』
 何だ、聴こえないぞ?声は繰り返した。
『ドイツ軍がポーランドへ侵攻』
 何?声ははっきりと聴こえた。
『フランスとイギリスがドイツに宣戦布告』
 何!
 何だと。これは世界大戦の始まりを告げる、けれど声は突然途切れた。声はスーッとノイズに吸い込まれやがてノイズも消えた。わたしの耳には沈黙だけが残された。まるで誰かが気紛れにラジオのスイッチを入れ、また気紛れにそのスイッチを切ってしまったかのように。
 ノイズが消えた後再び爆発音が甦った。しかしこの爆発音は何だ?
 まさか、戦争?
 ここでも戦争が始まったのか?今ここで戦争をしているのか?ここはもう戦場なのか?
「おおーい、誰かいないのか?車掌ーーー!」
 パニックの中でわたしは叫んだ。大きな爆発音がまた列車を揺らした。

 
 (七)白い家

 再び光が差した。トンネルが終わったのか?静かだった。どうやら爆発音も鳴り止んだらしい。今は列車の音だけが聴こえている。窓を見ると、おや?都会の街並みがそこにはあった。何処だ?しっとりと落ち着いてまるで秋のたたずまいではないか。落葉が風に舞い枯葉が街の通りを覆っていた。枯葉?枯葉だ。
 しばらくすると白い巨大な建物が遠くに現れた。列車は大きな公園の中をその建物に向かって走っているようだ。長袖姿の人たちが紅葉した公園の木々の間をゆっくりと歩いている。散歩でもしているのか?何時?懐中時計を見ようとしたが針が止まっているのを思い出し止めた。おそらく昼下がり位なのだろう。みな涼しげに歩いている。まさしく秋の午後ではないか!いつのまに夏から秋へ?わたしは半袖シャツから露出した腕に肌寒さを覚えた。
 おや、向かい側のシートにひとりの男が座っていた。いつのまに、誰だろう?今度は誰だ?わたしは不安を抱いた。窓を見ると列車は白い巨大な建物の前を通過する所だった。その建物の名前はこう記されていた。

『白い家』

「大統領!」
 突然向かい側のシートに座っていた男が叫んだ。
 大統領?何だ、それは?
 わたしは驚いて男を見た。男はじっとわたしを見ていた。他に人などいるはずもない。夢でも見ているのか?それともわたしに向かって叫んだのか?大統領と。ところが。
「何だね?」
 わたしはその男に向かって答えていた。またも無意識のうちに。あの時と同じだ。あの科学者Sに向かって無意識に答えた時のように。しかしなぜわたしが大統領なのだ?なぜ大統領でなければならないのだ?けれど男に向かって答えた瞬間に、確かにわたしは大統領だった。さっきわたしが過去のわたしであったように、今は大統領としてここにいた。だからわたしは目の前の男が大統領顧問だということもわかった。自然にというか直感的にわかるのだ。
「これをご覧下さい」
 大統領顧問は大統領と呼ばれたわたしに一通の手紙を差し出した。
「うむ」
 大統領と呼ばれたわたしはそれを受け取り中を開いた。
「これは」
 思わずわたしは絶句した。その手紙とは、あの手紙だったのだ。わたしの署名が記されたアメリカ合衆国大統領宛ての。ということは今はあの手紙が大統領へと渡される瞬間なのか?つまり、つまりは過去の時間駅。そうかこの列車はタイムマシンのようなもので、これからわたしはこの列車に揺られ過ぎ去った時を旅していくということか。
 しかしなぜ?坊や、なぜ今更過去を辿らなければならないのだ?過去を辿った所でどうなる?なあ、しかし。
 しかし!過去とは言ってもわたしはわたしがあの手紙に署名した以降の世界の動きを知らない。
 まさか。
 ふとわたしは悪い予感に襲われた。そして。
 しまった!
 わたしは心の中で叫んだ。こんな列車に乗るべきではなかったのだ。わたしはこの列車に乗ったことへの後悔に苛まれた。坊や、きみはわたしに何を見せたいのだ?何を知らせそしてわたしに何を願っているのだ?
「大統領、今日のスーツも素敵ですね」
「え?」
 大統領顧問は、ぼんやりと手紙を握り締めていたわたし、大統領と呼ばれたわたしに話しかけた。わたしは我に返った、というか大統領に返った。
 なるほどわたしの着ている半袖シャツが彼にはスーツに見えるのか。彼にとってわたしは『その時』彼が接した大統領でしかないのだな。大統領と呼ばれたわたしは手紙を大統領顧問に返し、彼に告げた。
「委員会を組織しよう」
「何の委員会ですか?」
 彼は訪ねた。大統領と呼ばれたわたしは静かに答えた。
「ウランに関する諮問委員会」

 気が付くと男は消えていた。わたしは我に返った。窓の外を見ると夕闇が迫っていた。

 
 (八)暗号
 
 これからどうなるのだろう?この列車の旅のこの先に一体何がわたしを待っているのだろう?不安に駆られながらわたしはぼんやりと外の景色を眺めていた。しばらく夕暮れの薄暗い街並みを見ていたが、ふとわたしはあることに気付いた。列車の窓ガラスに外の景色とは別の何かが映っているのだ。
 暗くなってきたから車内の風景が反射して映っているのだろうか?初めはそう思った。けれどそうではなかった。明らかに列車内の様子とは違っていたし何よりわたし自身が映っていなかったのだ。
 何だ、これは?
 わたしは不安に駆られ車掌を探した。
「おーい、誰かいないのか?」
 けれど答えはなかった。
 外が段々暗くなるにつれ、その正体不明の風景は鮮明になった。そして夜が訪れると、列車の窓ガラスはその風景で覆われた。まるで窓ガラスの向こうに別の空間が存在するかのように。わたしは息を呑んだ。
 何だ、これは?一体どういうことだ?

 そこには軍服を着た男たちがいた。彼らは通信機らしきものと向かい合っていた。彼らはわたしに気付かないのか?そっちからこちら側は見えないのか?わたしは黙って彼らの様子を観察した。
 沈黙が続いた。彼らの表情は真剣そのものだった。彼らが叩く通信機の操作音だけが辺りに響いていた。まるで心臓の鼓動のように。その空間を支配する重苦しい緊迫感はわたしをも飲み込んだ。
「何だね、きみたちは?」
 とうとう耐え切れずわたしは恐る恐る彼らに話しかけた。窓ガラスの向こう、彼らの答えを待った。けれど答えはなかった。答えなどあるはずがない。きっとこれは別の遠い空間の風景なのだ。あるいは遠い過去の。そしてわたしが目にしなければならない。それでもわたしは話しかけずにはいられなかった。
「そこで何をしているのだね?」
 わたしの声は呻き声に近かった。けれど答えはなくわたしはただ彼らを眺めているしかなかった。
 男たちはしばらく黙って通信機を操作していたが、突然彼らの間から歓声が起こった。
 どうしたのだ?
 わたしは彼らの声に耳を傾けた。ひとりの男が叫んだ。
『とうとうあの国の外交暗号を解読しましたね』
『ああ。これであの国の情報は我らに筒抜けだよ』
 何?
 と思う間もなく男たちの姿は突然薄らぎ始めた。
 え?
『これであの国がどんな奇襲攻撃をしようとしても、我が国は事前に』
 彼らの言葉もそして途切れた。
 何だ、おい?どうしたのだ?
 けれど彼らの姿、彼らの風景は消えた。
「おーい!」
 わたしは消えていった男たちへと叫んだ。けれど列車の窓ガラスは何もなかったかのように元に戻り、後には流れ去る夜の景色だけが残っていた。

 今のは何だったのだ?
 窓ガラスには呆然としたわたしの顔が映っていた。
 しかし、寒い!

 
 (九)波音

 なぜか急に寒くなった。吐く息が白い。肌寒いといったものではない、凍りつく寒さだ。わたしの体はがたがた震えた。何だ、この寒さは?
 窓に目をやるとちらほら白いものが舞っていた。
 何だろう?灰か何かか?
 いや違う。もしかして、それは?
 雪だった。雪!
 なるほどこれでは寒いはずだ。なにしろわたしは夏の服装をしているのだから寒くて仕方がない。体中の震えは止まらず歯と歯が震えてぶつかり合った。誰かどうにかしてくれ!
 窓を見ると雪はもう吹雪になっていた。そして遠く何処からか爆発音が聴こえ始めた。またか。けれど今度は爆発音に混じって微かだが何か別の音が聴こえた。それは静かな、何の音だろう?わたしは耳を澄ませた。
 それは波の音だった。波音は不思議にわたしを包み込んだ。身も心も波音に包み込まれわたしはしばし寒さも爆発音も忘れた。ただ目を閉じて見知らぬ港の風景を思い描いた。夜明けの港に打ち寄せる波、打ち寄せては波が砕け散る。砕け散る波また波の波音。海にはまだ微かに星明りが映っている。やがて夜が明け、朝焼けが海を染めてゆく。
 突然わたしは目を開いた。波音が消え別の音がわたしの耳を襲ったのだ。それはノイズだった。しばらくするとまたもやノイズの中から声が聴こえてきた。今度は何だ?声は叫んだ。
『奇襲攻撃』
 何?
『あの国が、真珠湾を奇襲攻撃しました』
 え?
『大統領の要請により、議会はあの国に宣戦布告いたしました』
 何!
 声もノイズもすぐに消え、後には爆発音と微かに聴こえる波音だけが残された。

 あの国。
 大統領の要請。
 そうか、その時彼の着ていたスーツは素敵だったかね?
 大統領顧問の男に尋ねてみたかった。あの国に宣戦布告を要請した時の彼のスーツは素敵だったかね?
 窓の外はもう雪でまっ白になっていた。わたしは寒さに震えていた。
 それにしても奇襲攻撃とは?
 外交暗号を解読したのではなかったのか?

「どうかなさいましたか?」
 車掌だった。震えながらわたしは答えた。
「寒いのだ。毛布か何かないかね?」
「寒い?」
 車掌は不思議そうに尋ねた。
「雨だからですか?」
「雨?」
 わたしは怒ったように車掌を睨んだ。
「何を言っているのだ。雪だよ、ほら」
 叫びながらわたしは窓を指差した。しかしそこには。
 え?
 わたしは開いた口が塞がらなかった。雪は融け、というより初めから雪などなかったかのように外にはただ雨が降っていた。しかももう寒くなどなかった。
「どうなっているのだ?」
「毛布はいりますか?」
 車掌は意地悪そうに尋ねた。
「もう結構だ」
 わたしは不機嫌に答えた。

 
 (十)雨宿り
 
 雨が降り続いた。幾日も幾日も降り続き空はどんよりとした灰色の雲で覆われていた。寒くはなくまた蒸し暑くもない。初夏の陽気だった。列車の窓から見える景色も雨に濡れた街並みばかりだった。
 ある日朝から豪雨が続き、わたしは雨の音で目を覚ました。日の光は厚い雲に遮られ午後になってもまっ暗だった。突然駅でもないのになぜか列車が止まった。
 はて、どうしたのだろう?
 と言っても車掌は見当たらず、どうすることも出来ないままわたしはぼんやりと時を過ごした。
 止まった列車から外を見ていると、突然二人の男が列車へと近付いてきた。男たちは傘を持たずびしょ濡れだった。
 何だろう、彼らは?
 今度は突然列車のドアが開いた。外は相変わらずの豪雨だ。忽ち激しい雨が車内へと降り込み車輌の床はびしょ濡れになった。雨と共に二人の男たちは列車に乗り込んだ。すると列車のドアはすぐに閉まりそれから列車は動き出した。まるでその男たちを乗車させるために停車したかのように。
 何だったのだ?
 不審に思いながらも運転が再開したのでわたしは安堵した。

 びしょ濡れの男たちはドアにもたれ雨のしずくをしたたらせながら何やらひそひそ話をしていた。聴くともなしにわたしの耳の聴覚はついつい彼らの会話へと向かった。彼らはわたしの存在に気付いていないのだろうか?それほど列車の中は薄暗かった。なぜかわたしは緊張し息を潜めた。
「ひどい雨だな」
「ああまったくだ。だがいい雨宿りの飲み屋があってよかった」
 飲み屋?この列車のことか?
 わたしは不審に思った。
「ところできみが知りたがっていた例の」
「ああ、どうなっているのだね?何かいい情報はつかめたかい?」
「実は。まあそう急かすな。一杯飲んでから」
「ああ、遠慮せずやりたまえ。今夜は僕の奢りだよ」
「それは有難い」
 男はいかにも酒を飲む仕草をしてみせた。
「それで?」
「つまり、例の計画は極秘で進んでいるようだよ」
「やっぱりそうか」
 例の計画?
「大統領が」
 大統領?わたしはビクリとした。男たちの会話を聴くことに全身を集中させた。何だろう、例の計画とは?
「大統領が?」
 もう一人の男が尋ねた。
「うん。その計画を認可したそうだ」
「何!それではいよいよ始まるのだね」
「ああ、ついに。しかしきみ、これはまだ内緒だよ」
「わかっているさ」
 男たちは警戒するように辺りを見回した。
 大統領が認可した?
 何だ、その極秘計画とは?
 一体何が始まるというのだ?
 わたしはどうしても知りたかった。相変わらず雨は降り続いている。相変わらず日は照らずまっ暗だ。
 わたしは知りたい衝動を抑えきれずとうとう立ち上がった。
「きみたち!」
 男たちへと声をかけた。ところが何と、男たちの姿はもうそこにはなかった。
 え?
 急いで男たちがいたドアの前に行くと、そこには雨のしずくだけが残っていた。
 何?
 何ということだ。
 わたしはわけがわからずそこに立ち尽くした。ドアにもたれガラス窓に当たる雨の音に耳を塞がれながら。
 これもまた過去の時間駅なのか。
 わたしはひとりつぶやいた。
 そしてまたわたしはあの男たちの会話を聴かされたのだな。
 列車のドアの前に立ち尽くしたままぼんやりとわたしは雨に濡れた街並みを見ていた。

 
 (十一)せみしぐれ駅

「どうかなさいましたか?」
 振り返ると車掌だった。
「こんな所にお立ちになって」
 わたしは不機嫌そうに答えた。
「ああ、雨だよ」
「雨ですか?」
 車掌は不思議そうに尋ねた。
「そう、このじめじめした雨だ。この雨はいつまで降り続くのかね?いい加減わたしは」
 そう叫ぼうとした瞬間、ところが突然眩しい太陽の光が差した。一瞬にして雨は止み空は晴れ渡り窓の外は一面眩しい緑の田園地帯になった。
 なんだ?どうなっているのだ?
 何処からか蝉の声が聴こえて来た。車掌は待っていたようにアナウンスをした。

「次はせみしぐれ駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」

 せみしぐれ駅?
 わたしは思わず笑った。
 ひまわり畑駅の次はせみしぐれか。変わった名前の駅ばかりなのだな。これから先もずっとこんな名前の駅が続くのだろうか?
 車掌は歩き去り列車は黙々と走り続けた。田園地帯を過ぎ林の中に入ると駅があった。列車は止まった。

『せみしぐれ駅』
 ホームの看板には確かにそう記されていた。
 列車のドアが開くと想像を絶する蝉の大音響が待っていた。
 おお、まさしくせみしぐれ駅。思わず耳を塞いだ。少しずつ耳を慣らしながら手を耳から離しわたしは改めて駅の風景を眺めた。木漏れ陽が林のあちらこちらから差し込んでくる。夏の昼下がりだ。
 わたしはホームに降りて思い切り背を伸ばしせみしぐれと木漏れ陽の中に身を任せた。ホームのベンチに腰を降ろした。わたし以外誰もいない。もうせみしぐれの音にも慣れ今は静かな位だ。時折涼しい風が吹いていつしかわたしは眠ってしまったらしい。

「たいさどの」
 ふと男の声で目が覚めた。あたりは静かだった。なんという静寂だろう、何かが、そうかせみしぐれが止んでいるのだ。男はわたしの目の前に立ってわたしを見ている。誰だろう?軍服を着ている。汗びっしょりではないか。
「大佐殿、お目覚めですか?」
 大佐?わたしがか?しかし。
「ああ、すまない」
 またしてもわたしは無意識のうちに答えた。どうやら今度は大佐らしい。わたしが大佐か。
「大佐殿。よくこんな蒸し風呂のような部屋で昼寝ができますね?」
 部屋?ああそうか、彼にとってここは何処かの部屋なのだな。
「ああ確かに。今日は格別暑いねぇ」
 わたしが答えると男は言葉を続けた。
「ところで大佐殿。例のコードネームは決まりましたか?」
「例の?」
「例の極秘プロジェクトですよ」
 極秘プロジェクト?極秘?わたしはふとせみしぐれ駅の前、豪雨の中、雨宿りの飲み屋と称して列車に乗り込んできた二人の男の会話を思い出した。
 確か、大統領が極秘計画を認可したと。果たしてそれのことか?
「ああそれか」
 しばしわたしは沈黙した。答えがすぐに出て来なかったのだ。その間男は直立不動で待っていた。男の額から汗が吹き出る。汗は頬へと垂れ、ハンカチは持っていないのか?答えはまだ浮かんで来ない。男の汗はとうとう顎まで辿り着き音もなく床に落ちた。ふいに言葉がわたしの唇に浮かんだ。
「マンハッタン」
「マンハッタン?」
「そう、マンハッタン工兵管区のマンハッタンだ」
 男は大佐と呼ばれたわたしの言葉に頷いて答えた。
「それではマンハッタン計画ですね」
 マンハッタン計画?
 大統領が認可した極秘プロジェクトのコードネームがマンハッタン計画。
 マンハッタン計画。マンハッタン、そしてわたしの乗った列車がマンハッタン急行。何か関係があるのだろうか?
 しかしそもそも極秘プロジェクトとは何だ?何を極秘に進めているというのだ?
「しかし大佐殿、本当にそんなものが製造できるのですか?」
 男の言葉がわたしの思考を遮った。そんなもの?製造?
 大佐と呼ばれたわたしは答えた。
「ああ確かにそうだな。しかしドイツに先を越されてはいかんし」
 ドイツ?
 ふと横を見るとわたしの隣に何かがあった。何だ?
 それは蝉の抜け殻だった。
 ん?
 いつからそこにあったのか?抜け殻は、抜け殻の目でわたしを見ていた。まるでわたしを睨み付けるように。わたしのことがわかるのか?わたしが誰なのか。わたしは蝉の抜け殻を手に取り男に見せた。
「これは、きみが置いたのかね?」
 ところが男は。
「何でしょうか、大佐殿?何か手に、何を持っていらっしゃるのですか?わたしには何も見えま」
 男は言葉を言い終えるより早く消えた。わたしの目の前からすうっと男は消えてしまった。
 それと同時に再びせみしぐれが辺りを包んだ。蝉たちが一斉に鳴き出したのだ。何という大音響。蝉たちは狂ったように鳴いた。まるで言葉にならない何か、怒り或いは悲しみを表すかのように。
 おまえたち、一体何をそんなに鳴いているのだ?まるで生命を削るように。
 わたしの手にはいっぴきの蝉の抜け殻が残されていた。わたしはそれをシャツの胸ポケットに入れた。なぜそうしたのかはわからない。

「そろそろ発車の時刻でございます」
 発車のベルと車掌の言葉に押され、わたしは列車に戻った。

 
 (十二)山奥

 ベルが鳴り止み、列車はせみしぐれ駅を後にした。列車は林から森へ、森から山へと奥深く入っていった。いつしかせみしぐれも聴こえなくなり、木々の葉は色づき、色づいたかと思うとあっという間に枯れていった。まるで夏から秋へそして晩秋へと足早に季節が駆け抜けてゆくように。わたしは肌寒さを覚えた。日が沈み列車はまっ暗な山の中を走り続けた。
 ふと列車が止まった。急ブレーキがかかったような止まり方だ。わたしはよろめいた。
 どうしたのだ?
 と、車掌が慌ててやってきた。車掌は何も言わず列車のドアが開くと外に出た。外は寒かったがわたしも車掌の後に続いて外に出た。
「どうしたのだ?」
「わかりません」
 車掌は息を切らしながら答えた。車掌とともに先頭車輌へと向かった。車掌の足は速くわたしが先頭車輌に着く頃には、車掌はもう原因を見つけていた。
「これですね」
 見ると列車の車輪に金網が絡まっていた。
「しばらくお持ち下さい」
「どうするのかね?」
「取り外すしかありません。今道具を取って来ますので」
 車掌が列車の中に消えた後、わたしはまっ暗な山の景色を見回した。
 おや?
 どこからか何か物音が聴こえた。遠く。
 何だろう、あの音は?
 音のする方向に目をやると微かではあるが光が見えた。わたしは出来る限り目を凝らしそれを見ようとした。
 何だろう、こんな荒涼とした山の中で。
 道具を持って戻ってきた車掌に光の方角を指差し尋ねた。
「わかりません」
 素っ気なく答えると車掌は車輪に絡まった金網を取り外し始めた。わたしはぼんやりと車掌のやる作業を見ていた。車掌が作業する音と遠くから聴こえて来るあの音とが妙に重なりあってわたしの耳に響いた。やがて目の前の車掌の発する音が消え、遠くの音だけがわたしの耳に鮮明に聴こえてきた。
 ん?
 音と同時にさっき一点の光でしかなかった音のする場所の光景がなぜかはっきりと見えてきた。

 そこでは夜の乏しい灯りの下、無数の男たちが忙しなく働いている。
 工事現場だ!
 周りにはすでに工場や大学の研究所のような建物がそれは無数に大規模に建てられていた。
『ほら急ぐんだ』
『もたもたしてると来年の春までに間に合わないぞ』
 現場を指揮する男の叫び声が聴こえてきた。
 来年の春?
 何をそんなに急いでいるのだ?こんな夜中まで働かせて。
 しかもこんな山の中に一体何を建てているのだ?
 吹き荒れる木枯らしの中で寒さに震えながら、ふと予感のようにわたしの脳裏にひとつの言葉が浮かんだ。
 マンハッタン計画。
 ぶるる。全身が震えた。
 わたしは浮かび来る疑問を解明したくて無意識に歩き出した。その音と一点の光の場所へと。

 その時列車の汽笛が鳴った。わたしは我に返った。
「出発でございます」
 車掌が静かに告げた。
「そうか」
 仕方なくわたしは列車へと戻った。
 
 
 (十三)電話ボックス

 列車は何事もなかったように走り出した。幻のように見えた一点のあの光もすぐに山の暗黒の中に消え去り、荒涼とした風景だけが延々と続いた。わたしは眠気を覚え睡魔の中に吸い込まれた。
 しばらく取りとめのない夢の中を彷徨っていたが突然わたしは目を覚ました。列車はまた止まっていた。わたしは車掌を呼ぼうとしてけれど止めた。何か、車内はまっ暗で何も見えなかった、その闇の中でわたしは何かが、何かが起こる予感を覚えた。
 何だ?
 わたしは黙った。黙ってそれを待った。そしてわたしはそれを見た。
 それは、火だった。
 火!
 遠い遠い闇の彼方に今迄一度として目にしたことのない火が燃えていた。それは一瞬で消えた。
「何だ?何だったのだ、今のは?」
 我に返ったわたしは静かにつぶやいた。

 闇が一瞬にして消え景色が戻った。列車はすでに動いていた。いつ山を抜けたのか列車は夜明けの街を走っていた。
 何だったのだ?今の出来事は。
 けれど考える間もなく今度は寒さが襲ってきた。寒さ、何という寒さだ。わたしの体はがたがた震え出した。外を見ると雪こそ降っていないが明らかに冬景色だった。
「冷えますねぇ」
 突然の声。振り向くと車掌が衣類を持って立っていた。
「よかったらお召しになりませんか?」
「ああ、ありがとう」
 けれど車掌が持っていた服は。
「何だね?これは」
「あいにくそれしか」
 それでも凍えて死ぬよりはましだと思いわたしはその服を着た。それはサンタクロースの衣装だった。
 サンタクロースの衣装を身にまとったわたしはぼんやりと流れる景色を見ていた。日が流れ夕暮れが訪れた。冬の日の夕暮れ、コートの襟を立てた人々が白い息を吐きながら慌ただしく歩いている。商店の看板にはクリスマスの文字。メリークリスマス。
 ふと何処からかベルのような音が聴こえた。
 何だろう?この音は。
 そう思った瞬間、声がした。
「電話ですよ」
 いつ現われたのか車掌がわたしの前に立っていた。
「電話?」
 なんと、この列車には電話機が付いているのか。車掌は電話に出るためか急いで姿を消した。ベルが止み車掌の声が洩れ聴こえて来た。
「もしもし。あ、少々お待ち下さい」
 受話器を置いて車掌が戻って来た。
「お電話です」
 なに、わたしに?一体誰からだろう?
「何処から?誰からかね?」
 わたしは緊張しながら尋ねた。車掌は答えた。
「サンタクロースからです」
「え?」
 車掌の答えに思わず吹き出した。
「サンタクロースの知り合いなどいないぞ」
「はあ、しかし急用のご様子ですが」
「何、急用?」
 仕方なくわたしは立ち上がり車掌の後に付いて電話ボックスの前まで歩いた。車掌がドアを開いた。
「どうぞ」
 わたしはボックスに入り恐る恐る受話器を耳に当てた。手が緊張していた。
「もしもし」
 心なし声も震えた。吐く息が白い。窓から外を見るとちらほら雪が降り出している。

「もしもし。わたしです」
 電話の向こうからは男の声。初めて耳にする声だった。初めて話す相手。ところがわたしはその声を聴いた瞬間にそれが誰なのかわかった。例によって大統領の時のように、せみしぐれ駅での大佐のように。
 電話の男はシカゴの科学者だった。そして男にとってわたしは実験の結果を報告する責任者だったのだ。実験。それは新型爆弾製造の基礎となる核分裂の連鎖反応実験。
「ああ、きみかね。どうした?」
 わたしの声はもう落ち着いていた。男はすぐには答えなかった。けれどもうわたしにはわかっている。一呼吸分の沈黙がわたしの耳を覆った。列車の窓に当たる雪の音さえ聴こえてきそうなほどの静けさだった。そして男は答えた。
「ブーツを履いたサンタクロースが銀世界に到着しました。 街の少年たちは熱烈に歓迎しました。以上」
 ツーー。ツーー。ツーー。
 そして電話は切れた。受話器の彼方からはもう沈黙しか聴こえない。深い深い沈黙。静かだ。静かな冬の夕べ。まるで少年の頃生まれて初めて教会で聖夜を迎えた晩のような静けさだった。
 わたしは受話器を握り締めたまま目を閉じて、さっき遠い遠い闇の彼方に見たあの火を思い出した。そうか、あれは新型爆弾を生み出すための新たなる火だったのだな。地球上で初めての、人類史上初の。
 もう引き返せないんですよ。もう、なにもかも。
 わたしたちは、そこへ向かっているのです。

 
 (十四)聖夜

 受話器を置いて列車の窓を見た。雪はもう街の家々の屋根に積もっていた。
「メリークリスマス!」
 街の通りを子どもたちが嬉しそうに駆けてゆく。その後を白い子犬が尻尾を振りながら追いかける。その息がまた白い。その息の白さが何ともいとおしい程に白いのだ。気が付くと電話ボックスは消えていた。

「メリークリスマス!」
 わたしは初めて教会で聖夜を迎えた晩のことを再び思い出した。わたしはその夜の記憶を辿った。

 近所の主婦たちによる賛美歌。子どもたちの救世主誕生劇。牧師の長い長い説教。
『みなさんは今日という日がいかにわたしたち人類にとって意義深い日か、その深遠なる意味を本当に理解できているでしょうか?やがて終末の時が訪れた後、わたしたち人類を救うべく救世主はこの地上にご降臨なさるのです』
 説教が終わり、牧師は聖夜を締め括るように言った。
『さあ共に敬虔な祈りを捧げましょう』
 人々の祈りの沈黙。
 それから牧師は、いや牧師の説教はそれで終わりわたしたち子どもたちは待っていたように勢い良く外へ飛び出したのだ。

『ところでみなさん』
 けれど牧師の言葉は終わらなかった。
『みなさんは、終末の時がいつかご存知ですか?』
 しかもいつのまにか牧師の声は別の人間の声に変わっていた。
 どうなっているのだ?これは、これはわたしの記憶、わたしの思い出話ではないのか?
 けれどわたしの回想はすでに途絶え、もはやわたしは別の幻想を見ていた。いや見せられていた。
『終末の時』
 牧師の声はけれど聴き覚えのある声だった。たしか、そうだこの声は。さっき電話ボックスの電話のむこうから聴こえてきた科学者の声ではないか!
『あなたは知っていますか?』
 突然電話の科学者の声の牧師はわたしを指差した。
『それがいつ完成するか』
「それとは何ですか?」
 わたしは恐る恐る聴き返した。
『人類を終末に導くもの』
「わかりません。それは何ですか?」
『救世主降臨の前に訪れる終末の象徴』
「わかりません。何を話されているのか、わたしには。わたしにはさっぱりわけがわからない。何ですか、マンハッタン計画とは?」
 しかしわたしの問いには答えず電話の科学者の声の牧師は語った。
『おお、神はわたしに告げたもうた。その計画は実現可能と。それは1945年には完成するであろう』
 何?
 そう言い終えると牧師の声は元の牧師の声に戻った。わたしの回想、わたしの記憶の中の。
 1945年にそれは完成?
『これで聖夜のお話は終わりです。みなさま気を付けてお帰り下さい』
 わたしの回想の中の牧師は静かに告げた。

「メリークリスマス!」
 いつか夜が訪れ、暗くなった列車の窓にサンタクロースの格好をしたわたしが映っていた。わたしは突っ立ったまましばらくぼんやりと雪を見ていた。音もなく大地へと降りしきる雪たちを見ていた。

 
 (十五)スノーマン

 シートに戻った。絶え間なく雪は降り続いた。いくつもの昼と夜が流れた。窓の外はまっ白で他には何も見えなかった。遠く何処からか爆発音が聴こえた。戦争はまだ続いているのだ。いつになったら終わるのだろう?ふと雪景色の中に何かが見えた。何だろう?吹雪の中にぽつりぽつりと黒い影。
 戦車だ。ああ、今あそこで戦争をしているのだ。

 兵士に抵抗する市民の姿が見えた。飢えと寒さと疲労に倒れる兵士が見えた。破壊された家の片隅にひとり取り残され泣いている幼子が見えた。そして何もかも雪に覆われた。降りしきる雪の中に何もかも。

 突然窓ガラスに何かが現われた。それは窓を覆うように外側から列車の窓につかまった。何だろう?生きものなのか?白い、雪、雪で出来ている。
 雪だるまだ!
 しかしなぜ、なぜ雪だるまが?
 あっけにとられたわたしを前にして雪だるまは窓ガラスに息を吹きかけた。白い雪の息。すると窓ガラスに白い文字がひとつ現れた。わたしは小さな声でその文字を読んだ。
「こ」
 文字はすぐに消えた。雪だるまはまた息を吹きかけ窓ガラスに新たな文字が浮かんだ。わたしはまたその文字を読んだ。
「こ」
 雪だるまとわたしは互いの動作を繰り返した。
「は」
「ス」
「タ」
「ー」
「リ」
「ン」
「グ」
「ラ」
「ー」
「ド」
「ド」
「イ」
「ツ」
「軍」
「敗」
「北」
 なにー。

 最後の文字が窓ガラスから消えたのを確かめると、雪だるまは静かに列車から離れた。列車から離れゆっくりと地面に着地した雪だるまはそして動かない元の雪だるまに戻った。列車は走り続け雪だるまの姿はすぐに見えなくなった。

 優勢を誇ったドイツがソ連に敗北。そして確かにこの戦争の行方は大きく転換してゆくのだ。雪だるま、雪も草も大地も地に眠る動物たちも、この世界、この星に生きるすべての生命の運命を巻き込んだ愚かなこの戦争の。
 そして雪は降り続き、列車は走り続けた。

 
 (十六)ロスアラモス

 列車は街を抜け、街を抜けると突然雪が止み春の山並みが見えた。確かに春だ!色鮮やかな山の緑が続く。列車は山の中へと入ってゆく。
 山。

 日が沈みすぐにあたりはまっ暗になった。列車はどんどん山奥へと。
 もしかして、ここは?
 確かに見覚えのある景色だった。確かここは?そうだ、ここはせみしぐれ駅の後に入っていった山の中だ。
 どうしてまた同じ場所へ?
 そう思う間もなく列車は止まった。今度は穏やかな停車だった。しかし目の前は無数の灯りで眩しかった。
 何だろう、この灯りは?
 わたしは窓の外を見た。そこはとても山の奥とは思えない、街だ。まるで一つの街のような建物の連なりが目の前に広がっている。ただ建物と言っても工場や大学の研究所のようなものばかり。
 ここは?そうだ、あの工事現場に違いない。
 来年の春までにと夜中まで忙しなく男たちが働かされていた。それが今こうして完成したということか。
 建物は外部者の侵入を拒絶するように有刺鉄線のフェンスで囲まれていた。しかしこれら建造物は一体何だ、何の建物だ?

 列車のドアは開いていた。車掌の姿はなかった。わたしはどうしようか迷ったが思い切って外へ出た。
 出発する時は汽笛が鳴るだろう。
 外へ出て列車と線路から離れわたしは建物へと歩いて行った。入り口の門の前に来たが人影は無く門は固く閉ざされていた。門も周囲のフェンスも高くわたしは中に入るのを諦めた。
 門には表札があり、そこに建物の名前が記されていた。わたしはゆっくりとその文字を読んだ。
『ロスアラモス研究所』
 ロスアラモス、研究所?
 何の研究所だ?
 何の研究のためにこんな荒涼とした人里離れた山奥にこんな建物を建てたのだ?一体何を研究し何を造ろうというのだ?極秘にするためか?そして新型爆弾の開発?吹き荒れる風の中でまたしてもわたしの脳裏にあの言葉が浮かんだ。
 マンハッタン計画。

 ぶるる。
 春だというのに全身が震えた。
 列車の汽笛が鳴った。
「お急ぎ下さい」
 車掌が大声でわたしを呼んだ。わたしは急いで線路まで戻り、走り出す列車へと飛び乗った。

 それからまた、いくつもの昼と夜が流れた。ひとつの夏と秋が流れた。そしてまた冬が訪れた。わたしは再びサンタクロースの衣装を着た。

 
 (十七)サンタクロース

 ドスン。
 突然列車が止まった。車掌が現われ急いで外へ出た。
「どうしたのかね?」
 わたしも後に続いた。外は豪雪。吹雪の中を列車の先頭まで辿り着いた。まっ白な車掌の背中が立ち尽くしている。
「どうした?」
 問いかけながら前を見ると線路に雪が!なんと列車の高さまで降り積もっていた。列車はその雪に衝突して止まったのだ。
「すごい雪だね、どうするのだ?」
 尋ねてはみたが車掌とてどうもできまい。寒さに震えながらわたしたちはしばらく黙って雪を見ていた。雪の白さを。
「ここにいても仕方がない。なあ、融けるまで中で待つとしないか?」
 車掌の肩をポンと叩きわたしは歩き出した。けれど車掌は黙ったまま動かない。凍って動けないのか?それとも、何か、何かを待っているのか?わたしは足を止め振り返った。
「おい、きみ」
 その時突然車掌が空を見上げた。つられてわたしも天を仰いだ。何かが見える。あれは何だ?絶え間なく降り続く雪の彼方、曇った灰色の空の中に確かに何か黒い影が見えた。それは物凄いスピードで移動して。
 戦闘機だ!
「何だね?あれは」
 車掌へと問いかけたが車掌の姿はなかった。え、何処へ行ったのだ?
 その時。

『しかし驚きましたね』
 突然声が聴こえた。車掌の声ではない誰か別の男の。
 誰だ?誰かいるのか?
 わたしは大声で叫ぼうとした。けれどその時わたしの口をついて出た言葉は違う言葉だった。
「たしかに」
 わたしはそうつぶやいていた。無意識に。
 何が確かに、なのだ?けれど確かにまるで誰かに答えるように、わたしは。そう、さっきのあの声に答えていたのだ。空を見上げわたしはあの戦闘機を見つめた。するとまたしてもあの声が。
『それでは中佐殿。ドイツの』
 中佐?そうか、わたしは今中佐なのか。その声は続けた。
『新型爆弾の開発は、進んでいなかったということですか?』
 なに?
「そのようだね。もはや新型爆弾の開発などしている余裕はなかったのだろう」
 中佐と呼ばれたわたしは答えた。
『彼らがこのニュースを聴いたら、びっくりするでしょうね』
「彼ら?」
 わたしは尋ねた。
『あの極秘計画に従事する科学者たちですよ』
「ああ?」
 わたしは一瞬息を飲んだ。
「ああ、そうだね。ドイツへの危機感が彼らをあの開発へと向かわせているのだから」
『早く彼らに、このことを知らせたいですね』
「ん?」
 中佐と呼ばれたわたしは言葉を詰まらせた。
「いや」
 そして中佐と呼ばれたわたしは静かに語った。
「彼らには知らせないのだ」
 そうなのか?
 なぜ。
 そうだったのかーーー!
『え?なぜですか?中佐殿。こんな素敵なクリスマスプレゼント、他にありま』
 けれど男の声は猛吹雪のうなり声にかき消された。ずっと空を見上げていたわたしの視界からそしてあの戦闘機は消えていった。

 クリスマスプレゼント。
 メリークリスマス。
 サンタクロースの衣装を着たわたしの肩に雪が積もっていた。その雪を払うように誰かがわたしの肩を叩いた。車掌だった。
「そろそろ発車の時刻でございます」
 列車の汽笛が鳴った。
「発車?しかし雪は?」
 わたしは叫んだ。ところが突然空が晴れ渡り眩しい太陽が顔を出した。暑い。太陽の日差しを浴び線路に積もった雪たちが融け始める。雪たちはあっという間に融けて水になった。
 何ということだ!
 わたしは額の汗を拭った。何という暑さだ。これではまるで夏ではないか。わたしはサンタクロースの衣装を脱ぎ捨てた。
「ええ、もう夏でございますから」
 車掌が答えた。
「何?」
 驚いたわたしを置いて車掌は一足先に列車に乗った。
「急いで下さい。もう発車しますよ」
 慌ててわたしも列車に飛び乗った。すぐに列車のドアは閉まり列車は動き出した。
「あ」
 わたしは大きな声で叫んだ。
「しまった」
 サンタクロースの服を外に忘れて来てしまったのだ。
「どうかなさいましたか?」
「どうしよう、あのサンタクロースの服」
「ああ、あれですか」
 けれど車掌は微笑んだ。いや微笑んでいるように思えた。
「心配いりませんよ。あれはもう必要ありませんから」
「必要ない?」
「ええ。もうサンタクロースは、いなくなりましたから」
「え?」
 どういう意味だ。問い返してみたかったがわたしはもう尋ねなかった。最後尾の車輌へと戻りながらわたしは静かに車掌の言葉を繰り返しつぶやいた。

 もうサンタクロースは、いなくなりました。もうサンタクロースは。

 
 (十八)tsuyu

 激しい雨が降った。そのせいで暑さは少し和らいだのだが。雨に混じって遠くから爆発音が聴こえた。
 またか?
 今度はどこだ?
 確か前に爆発音を聴いた時そこはスターリングラードで、ドイツが敗北した場所。
 今度はどこが戦場なのだ?

「激しい雨ですね」
 突然声が。驚いて振り向くと車掌だった。
「何だ、きみかね」
 わたしは安堵したようにため息を吐いた。
「雨もだが、きみ。あの爆発音も」
「ああ、あれですか」
 車掌が悲しげな声で答えた。
「あれは、あの国」
「あの国?」
「あの国を、攻撃しているのです。あの国への初めての大規模な空襲」
 車掌は答えた。
「え?」
 と言ってわたしは黙った。そして
「きみはあの国を知っているのかね?」
 わたしは尋ねた。すると車掌はわたしの質問に驚いたのか少しわたしから遠ざかるふうに思えたが、何か気を取り直したように車掌は答えた。
「ええ、少しだけ」
「わたしもあの国なら知っている。一度訪ねたので」
「ああそうでしたか?」
 車掌は嬉しそうに答えたが声は相変わらず悲しげだった。
「今頃はtsuyuで」
「tsuyu?そうだったね。あの国の雨季」
「あのtsuyuの激しい雨の中、今頃皆爆撃から逃げ惑っていることでしょう」
「ああ、そうだね」
 わたしたちは黙った。それからわたしは。
「しかしきみは」
 車掌に尋ねようとしてけれどいい言葉が見つからなかった。車掌もまた歩き出したのでわたしはそれきり言葉を止めた。

 何か、まだ確かに何か他に話すべきことがあったはずなのだが。車掌が去った後、ただわたしはひとり黙って雨を眺め遠い爆発音を聴いた。

 
 (十九)戦場

 雨が止むと暑さが増した。いつこんな所まで来たのか遠くに海が見えた。
 美しい島々が見えた。青い海、空には入道雲が広がっている。島の緑、白い砂浜、照りつける夏の日差し。けれど爆発音は聴こえ続けた。その美しい島々が爆発で燃えていた。
「あそこも戦場なのか?あの場所でも戦争を」
 と問いかけて車掌がいないことを思い出し止めた。
 ここは何処だ?あの島々は何という島だろう?
 列車が海岸線を走り、海の波に当たる太陽の日差しのきらめきが列車の窓に反射した時、ふいにわたしの脳裏にある風景が映った。

 それは遠くの島々の中のひとつ。そこで行われている戦争の情景だった。わたしは一人の兵士としてその島の大地に立っていた。

「あの国も必死ですね」
 兵士であるわたしは攻撃の合間に上官に尋ねた。
『そりゃそうだ。この島での敗北は彼らにとって大きな痛手となる』
「すでに我が軍は多くの島で彼らを撃退してきましたからね」
『その通り。そしてわが国にとっても、この島での勝利は大きい』
「そうですね」
『この島を手に入れ、ここを爆撃基地としてあの国の本土を攻撃するのだ』
「そうですね」
『そうだ』
 それから兵士であるわたしは尋ねた。
「ところで」
『何だね、改まって?』
「ここは、この島は、この島の名は何というのですか?」
『おい、何を寝ぼけているのだ?』
 上官の男は笑いながら空を見上げた。けれどその途端上官の男の表情が凍り付き叫んだ。
『逃げろーーー』
 けれど兵士であるわたしはその場に突っ立ったまま、また尋ねた。尋ね続けた。
「この島の名は何ですか?」
 上官の男はひとり逃げながら泣き叫ぶような声でわたしに叫んだ。
『何を愚図愚図している!ここは』
 その瞬間爆弾がわたしの上に落ちた。
 そしてわたしは、兵士であるわたしは、その時死んだ。
 ひとりの兵士として確かに死んだ。戦争の名の下に、生まれた国を守るため、愛する人を守るため、美しい海、島、空を守るために。
 最後に上官の男の声がぼんやりと耳に聴こえた。
『ここは、テニアン島』

 
 (二十)夕映え駅

 わたしは我に返った。列車はすでに海岸線を離れもう海は見えなかった。
 わたしは滝のような汗をかいていた。その時車掌の声がした。
「次は夕映え駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」

 夕映え駅?
 走り続ける列車の窓から空を見上げた。夏の夕映えが広がっていた。地平線の彼方に小さな駅が見える。あれが夕映え駅か。列車はゆっくりと駅に到着した。駅舎もホームの看板や線路もみな夕映えの色に染まっていた。何という美しさだろう。
 ベンチにひとりの男が座っていた。男の顔も夕映えに染まっていた。男は列車がホームに入ってくるのを見ると立ち上がった。
 列車が止まりドアが開く。静かだ。何という、せみしぐれも聴こえない。ただ遠く何処からかカラスの鳴く声が聴こえるだけ。懐かしい夕暮れの風景、誘われるようにわたしはホームへと降りた。するとベンチにいたさっきの男が近付いて来た。わたしに何か用か?それともただの乗客?男はわたしの前で立ち止まった。男は静かにわたしに話しかけた。
「大統領」
 大統領!またか、わたしは心の中で叫んだ。

「大統領、お待ちしておりました」
 男は手を差し出した。大統領と呼ばれたわたしは訳がわからないまま男と握手を交わした。男の手に触れたその瞬間、けれどわたしは男が誰なのかわかった。男は科学者B博士だった。わたしは男に向かって答えた。
「博士。お待たせしてしまって」
 男は笑みを返した。
「立ち話も何ですから」
 男とわたしはホームのベンチに腰を降ろした。ふと空を見ると空は夕映えのままだった。雲は立ち止まり夕映えの色も変化がない。まるで時間が止まっているかのようだ。もしかしてこの駅はずっと夕映えのままなのかもしれない、ふとそう思った。しばらくわたしたちは黙って夕映えを見ていた。やがて男から口を開いた。
「早速ですが、大統領」
 男は深刻な表情で大統領と呼ばれたわたしを見つめた。
「今作られているあの新型爆弾は」
 なに、その話か。わたしは息を飲んだ。
「これまでの爆弾とは比較にならない破壊力を持つでしょう」
「博士」
「そして世界の大国が競い合い、次から次へとあの新型爆弾を作るでしょう。密かに、無秩序に。世界を支配する、弱い国を脅す新型爆弾として」
「博士」
「想像して見て下さい、大統領。もしも何処かの国がその使い方を一歩誤れば、世界は一瞬にして滅亡してしまうかもしれないのですよ。この世界、地球。大統領、そうなってからでは手遅れなのです」
 男は身を乗り出し大統領と呼ばれたわたしへと迫ってきた。その熱気に押されわたしはベンチの端まで後退りした。
「博士、ではどうすれば」
「ですから、大統領。野蛮な国の暴走を、人間の愚かな過ちを食い止めるため、国際的な管理体制が必要なのです」
「わかりました、博士」
 わたしは曖昧に答えた。見上げると夕映えの空が変化していた。止まっていた時間が再び動き出したかのように。雲が流れ、赤々と燃えていた夕映えの色が翳り始めた。突然発車のベルが鳴った。
「博士」
 わたしは立ち上がった。
「大統領」
 男は咄嗟にわたしの腕をつかもうとした。けれどわたしは男の手から逃げた。
「わたしはもう行かなければなりません」
 わたしは列車に飛び乗った。男は追いすがってきた。
「大統領!大統領、大統」
 けれど男の声は途絶えた。振り返ると男の姿はもうなかった。夕映えのプラットホームにベンチだけが残された。

「そろそろ発車の時刻でございます」
 列車のドアが閉まり、列車は夕映え駅を発車した。

 
 (二十一)黄昏

 車掌が通りかかったので声をかけた。
「だいぶ涼しくなったね。夏も終わりかね?」
「もう秋でございますから」
「秋?」
 驚いたわたしを置いて車掌はさっさと歩き去った。窓を見た。すると確かに木々の葉が色づき街の景色はもう秋の佇まいだった。列車はいつか川沿いを走っていた。川の向こう側にビルが建ち並んでいる。随分都会のようだが。もう夕暮れのラッシュ時なのか人の波が慌ただしく行き交っている。黄昏の陽が街も川も紅く染めている。川の面にきらめく黄昏の光を目で追いかけわたしは窓から顔を出した。すると川は列車の下まで続いていた。
 何?川が列車の下を流れている!
 なんと、列車は川沿いではなく川の上を走っていた。
「なにーー」
 わたしは大声で叫んだ。けれど驚きを分かち合う人などいない。まあいい、きっと大丈夫なのだろう。現にこうやってちゃんと走っているのだから。落ち着きを取り戻したわたしは再び川を眺めた。きらきらと黄昏の光が瞬いている。そこへ突然声が。

「だいとうりょう」
 ん?確かに声が聴こえた気がした。車内を見回したが誰もいない。きょとんとしていると再び声が。
「大統領。ここだよ、ここ」
 声は列車の外からだった。何処?誰だろう?周りの景色を見回した後川を見下ろした。川の水面。
 おお!
 なんとそこに人影が映っていた。川は列車の立てるさざ波に揺れ、人影ははっきりとは見えなかった。と突然列車が止まった。川の上で。さざ波が収まり川に映る人影の像が定まった。わたしはじっとその影を見つめた。
「大統領。気付いたかね?」
 川に映った人影が再びわたしを呼んだ。そしてわたしはそれが誰なのかわかった。
「首相」
 大統領と呼ばれたわたしは川の面に映る男に答えた。男はある国の首相だった。男は待っていたように話し出した。
「大統領、では早速本題に入ろう」
「そうですね、いつまた川が荒れるとも知れません」
 何の本題だろう?大統領と呼ばれたわたしは男の言葉を待った。男は言った。
「例の投下目標だが」
 例の?例のとは何だ?
「ドイツはもはや敗色濃厚」
 ドイツ、例の投下目標?男はさらに続けた。
「さらに開発の可能性もない」
「では、そうなると」
 大統領と呼ばれたわたしは恐る恐る尋ねた。男は静かに答えた。
「あの国」
 あの国、例の投下目標。
 その時突然波が起こり川の面が揺れ出した。
「待って下さい」
 大統領と呼ばれたわたしは川に映る男に叫んだ。けれど川は揺れ続けた。ゆらゆら男の影が消えてゆく。
「待て、待ってくれ」
 再び川が平静に戻った時けれどもう男の影はなかった。わたしは我に返った。
 例の投下目標、あの国。

 突然列車が激しく揺れた。動き出すのだろうか?待っていたが列車は動き出さなかった。その代わり列車は沈み出した。川へと少しずつ少しずつ。
「どうしたのだ?」
 わたしは大声で叫んだ。おい、このまま沈没してしまうのか?
「車掌!おーい」
 けれど答えはなかった。列車は川へと沈んでいった。

 
 (二十二)1945年駅

「ご安心下さい。この列車は水の中でも平気ですから」
 車掌が現われた。
「何?」
 けれど車掌の言う通りだった。列車は川の中に沈んでいるのに不思議と水は浸入して来なかった。恐る恐る窓の外を眺めた。列車はゆっくりゆっくり沈んでゆき、やがて川底に到着すると止まった。外はまっ暗で何も見えない。時より魚がガラス窓に当り驚いたように逃げていったがそれ以外は静かだった。しーんと静まり返った暗黒の世界。列車はじっと止まったままだった。
「いつまでこうしているのかね?」
 車掌に尋ねたが返事はなかった。
「故障でもしたのかね?」
 再び問いかけると車掌は小さな声でささやくように答えた。
「お静かに願います」
「しかし、きみ」
 車掌は人差し指を口に当てた。しーっ。仕方なくわたしは黙った。

 どの位時が流れたろうか。不意に汽笛がひとつ鳴った。その音はすぐに川の水に吸い込まれた。と突然。
「到着いたしました」
 車掌がつぶやいた。
「え?何処へ?何処に到着したのかね?」
 わたしはわけがわからず車掌に尋ねた。車掌はゆっくりとかみ締めるように言った。
「1945年駅」
「何?1945年駅」
 沈黙が落ちた。車掌は音もなく歩き去った。

「そうか」
 わたしはひとりつぶやいた。1945年になったのか。再び汽笛が鳴った。列車が動き出すのだろう。そうだ、これから1945年駅を発車するのだ。
 もう引き返せないんですよ。もう、なにもかも。
 わたしたちは、そこへ向かっているのです。
 不意に車掌の言葉を思い出した。
 わたしたちは、そこへ。そこへ。そことは?そうか!わたしは急いで切符を取り出した。
 "Manhattan express August 6th,1945"
 それから懐中時計の止まった時刻を確かめた。
 8時15分。
 そうか、とうとうそこへ走り出すのだね。わたしはゆっくりと目を閉じた。祈るように、眠るように。列車の汽笛が鳴り響いていた。ゆっくりと列車が動き出すのがわかった。

 
 (二十三)Tokyo

 目を開けると列車は地上に戻っていた。空は夕闇に包まれ外の景色はもう薄暗かった。建物はなく地平線だけが何処までも続いている。列車はレールの上をひたすら走り続けた。
 しばらくして物音に気付いた。空だ。急いで空を見上げると何かが飛んでいる。何だろう?よく見るとそれは戦闘機だった。夕闇の中に無数の戦闘機が飛んでいる。きれいに整列して次から次へと編隊を組んだ戦闘機の集団が現れては空の彼方へと消えていった。一体どれだけの数だったろう。やがて最後の集団が消えると再び静寂が訪れた。しかしそれも束の間突然物凄い爆撃音が始まった。何という轟音。思わず耳を塞いだ。爆撃音が鳴るたび列車は揺れた。
 それからわたしは地平線の彼方に炎を見た。炎は強風に煽られ大きく揺れながら次から次へと広がっていった。列車は地平線へと走り続けた。このままだとあの炎へと飛び込んでしまう。炎は大きく口を開け列車を待ち構えている。どうするのだ?停車しないのか?
「車掌!」
 大声で叫んだが答えはない。ああーー。わたしは手で顔を覆った。列車は炎へと突っ込んだ。熱い。焼けるようだ。一体どうなるのだ?けれど列車は炎の中を走り続けた。ん?大丈夫なのか?わたしは顔から手を離した。

 爆撃音が止み一瞬静けさが訪れた。けれどすぐに炎が大地を焼く音がわたしの耳を捉えた。風が列車の窓を叩いた。と風の中にノイズが聴こえてきた。もしかしてこれは!わたしは待った。するとノイズの中に声が聴こえて来た。やはりラジオの電波だ。声は次第に大きくなった。声は叫んだ。
『B29』
 ん、何だ?何のことだ?
『Tokyo大空襲!アメリカ軍が最大規模の空襲を行いました』
 なに、Tokyo?空襲?
 もしかして、まさか、あれを、あの新型爆弾を?わたしは絶句した。わたしはわたしの体が燃えさかる炎に焼き尽くされる思いがした。声は続けた。
『B29爆撃機による爆撃のため、数万の死者が出た模様です』
 なに、B29爆撃機?B29とは戦闘機の名前か。一瞬あの新型爆弾の名前かと思ったがあの新型爆弾ではなかったのか?再び爆撃音が始まりラジオの声はかき消された。

 列車は炎の中を走り続けた。熱い。そして爆撃音。炎と爆撃音はいつまでも続いた。止めてくれ、もう勘弁してくれ。いつまで続くのか?いつまで続くのだ!わたしは叫びながらシートにうずくまった。耳を押さえそのまま意識を失った。わたしは疲れていたのだろう。わたしは深い眠りに落ちていった。

 
 (二十四)人波駅

 おや何だ?このざわめき。押し寄せては引いてゆく、まるで波の音、何て心地いい。もしかしてここは海?
 目を覚ました。わたしはシートに座り窓にもたれていた。車掌が倒れていたわたしを起こしてくれたのだろう。列車は停車していた。外を見ると辺りはもう薄暗い。空にきらりと何かが光っている。また爆撃機か?爆撃機のライト?いやそうではない。光は同じ位置にとどまって動かなかった。しかもやさしいその光はわたしをじっと見ていてくれるよう。ああ星だ、一番星。一番星が瞬いているのだ。何という美しさだろう。戦闘の炎は既に消え去り爆撃音ももう止んでいた。ここは何処?さっきの波音は?
『人波駅』
 看板の文字が目にとまった。駅?そうか、駅のホームに停車していたのか。人波駅?人波、海の波ではなく人の波?宵のラッシュ時なのだろう確かに駅は人の波で溢れていた。絶え間ない人の波、人々の途絶えることを知らない足音の波また波が押し寄せては引いてゆく。もしかしてそうか!さっき波の音だと思ったのはこの雑踏のざわめきだったのだな。
 人波駅。目を閉じて、ああ確かに波の音に聴こえるではないか。まるで何処か遠い海の波打ち際に佇んでいるようだ。見上げると遠くにネオンの看板が見えた。それはまるで遠い夜の浜の漁り火にも似て綺麗だった。店の名を書いたネオンの文字が波のように連なる。
『Heaven』
『OASIS』
『Eden』
 ああ、なんと哀しい言葉だろう。今世界は戦争をしている。世界は何処も戦場なのだ。もう一度目を閉じて人々の絶え間なく続く足音の波を確かめた。いつまでも続く、いつまで続くのか?押し寄せては引いてゆく、あたかも遠い海の潮騒のように。

 ふと波が、いや足音が一瞬途絶えた。驚いて目を開いた。そこには相変わらずの人波が。いや待て、変だぞ。止まっている?よく見ると目に映る雑踏の風景が止まっていた。どういうことだ?驚いたわたしは列車を降りてプラットホームに立った。どうなっているのだ?わたしは歩き出し恐る恐る雑踏へと近付いていった。すると突然、停止した人波の風景の中からひとりの男が姿を現した。まるで壁に描かれた風景画の中から抜け出して来るように。え?驚いたわたしは立ち止まり後退りした。けれど男はわたしに気付いた。男はわたしへと歩いてくる。人波はまだ止まったままホームには男の足音だけが響いた。男はわたしへと辿り着いた。
「やあ」
 男はわたしに声をかけた。その瞬間それまで停止していた人波が動き出した。まるで止まった時計の針が再び時を刻み始めたかのように。足音の波また波が押し寄せては引き、押し寄せては。わたしは恐る恐る男の顔を見た。
「おお、きみか」
 わたしは大きく叫んだ。それは科学者Sだった。その瞬間発車のベルが鳴った。

「それでは署名を」
 彼が口を開いた。
『Heaven』
『OASIS』
『Eden』
 人波駅を後にした列車はネオンの波の中を走った。彼とわたしは向かい合ってシートに座った。
 署名?わたしは彼の顔を見つめた。彼の横顔にネオンサインの色彩が映った。彼は一通の手紙を差し出した。わたしは静かにその手紙を受け取った。これはまるであの時と同じ。あれは、そうだ、ひまわり畑駅を発車した後のこと。何もかもがあの時と同じ。しかし何かが違う。何だ、何が違う?わたしは恐る恐る手紙を開いた。
 ああ、これは。
 わたしはため息を吐いた。手紙が違う。その手紙はアメリカ合衆国大統領へと宛てた4番目の手紙だった。新型爆弾の研究開発において科学者と政府との間にコミュニケーションが不足していることをその手紙は指摘していた。けれどただそれだけのことだった。
「きみ、これだけでいいのかね?」
 わたしは彼に問いかけた。けれど彼はきょとんとした顔でわたしを見つめた。
「だから、何と言うか、もっとだね」
 けれど彼の反応は鈍かった。わたしは声を荒らげた。
「きみ、このままじゃあの国が」
 すると彼は不思議そうな顔でわたしを見た。
「あの国?あの国がどうかしたのかい?」
 ん?彼は静かに言葉を続けた。
「ぼくたちの最大の懸念はドイツだよ」
 なに?何を言っているのだ!ドイツはもういいのだよ。このままだとあの国が、このままだとあの国に。
 そう叫ぼうとしてけれどわたしは言葉を失った。そうか、そうだった。この列車は過去の時間駅を走っているのだ。だから今は4番目の手紙について彼と打ち合わせをした、あれは確か3月の終わり。そうだ、だから今この列車はまだ3月の終わり!ということはドイツが降伏したことさえ(ドイツが降伏したのは5月なのだから)彼はまだ知らないのだ。
 沈黙が雪のように落ちた。深い沈黙だけがわたしを包み込んだ。さっき人波駅での、あの人波の絶え間ない足音が耳に甦った。あの押し寄せては引いてゆく人々の足音、そして吐息、鼓動、夢、願い、それらの波また波が。
『Heaven』
『OASIS』
『Eden』
 何処に?一体何処にそんなものがあるのかね?目を窓に向け明滅するネオンライトの波へとわたしは問いかけた。
「大丈夫かい?」
 彼が心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「ああ、いや何でもない」
 わたしは力なく笑い返した。わたしは黙って署名を終え、彼へと手紙を返した。
「一日も早くこれを大統領に届けなければ」
 彼は微笑んだが、わたしは返す言葉が見つからなかった。もう無駄なのだ。無駄だったのだ、こんなことは。

 それから彼とわたしは何も言わず流れゆくネオン街の景色を眺めた。ネオンに混じって、おや?ちらほら白いものが見えた。雪か?雪だ。なんと季節外な、名残りの雪、あるいは嘆きの雪か。
「雪だ、ほら」
 彼へと指差した。けれど彼は答えた。
「え、何処に?ぼくには見えないな」
 何?そうか。そうだったね。あの日は雪など降っていなかった。そうだ、そしてわたしたちはこうやってただじっとしている間にも流れ去る時の中に何かを失ってゆくのだ。もう二度と取り返すことの出来ない何かを。
「すまない、冗談だよ」
 わたしは小さく答えた。けれどもう目の前に彼の姿はなかった。

 
 (二十五)桜

 ネオンの波が途絶えると窓の外はまっ暗になった。日は既に沈み夜の帳が降りていた。何処を走っているのか灯りひとつ見えない。空を見上げても巨大な雲の群れが星の瞬きを覆い隠している。上空では強風が吹いているのか空を駆ける雲の流れは速かった。

 風の中にノイズが聴こえて来た。やがてノイズは声へと変わった。ラジオの声だ。何のニュースだろう?わたしは聞き耳を立てた。声は叫んだ。
『臨時ニュース、臨時ニュース』
 いかにも不安をかきたてるようなアナウンス。何だ、何が起こったのだ?
 ラジオの声はトーンを下げ静かに告げた。
『アメリカ合衆国大統領が、急死いたしました』
 何。いや、そうだ。そうだったのだ。ということは、だから結局あの4番目の手紙は届かなかったということか?或いはたとえ大統領の手元に届いたとしてもこれでは何にもならない。なんということだ、わたしたちの微かな望みを乗せたあの手紙。

 ラジオの声はそれきりノイズの中に吸い込まれた。ノイズもまた消え静寂が訪れた。
 けれどそれも束の間今度は激しい爆撃音が聴こえてきた。またも戦場か?空を吹いていた風が雲を連れ去り空には赤い炎が燃え上がった。
 燃えている、街が建物が、そして人々が。すべてを焼き尽くす炎の音がわたしの耳を覆った。
 何処だ?
 何処が燃えているのだ?
 何という国の何という街?
 ふと人の気配に気付いて振り返ると、そこには車掌が立っていた。車掌は燃えさかる炎の中のひとつの建物を指差した。
 夜の闇に身を隠した戦闘機の群れがそのひとつの建物を集中攻撃しているように見えた。
「何だね、あの建物は?」
 尋ねるわたしに車掌は静かに答えた。
「研究所」
「研究所?何の?」
 わたしは問い返した。車掌はやはり静かに答えた。
「あの国の」
「あの国?」
 言葉を繰り返すわたしに、わたしを見つめるように(おそらくそれは悲しい眼差しで)車掌はゆっくりとつぶやいた。
「ウラン濃縮に関する実験施設」
「なにーー」
 わたしの叫び声を残してけれど爆撃音も炎の音も消えた。

 空を焦がす戦場の炎が姿を消すと空には星が瞬いていた。遠い星のささやきさえ聴こえてきそうな程あたりはそして静かだった。わたしは星星の瞬きを見つめた。
 美しい、何という美しさだろう。
 わたしは走っている列車の窓から思わず顔を出した。満天の星。
 おや。
 その時ふとわたしの頬に白いものがひとつ舞い降りた。
 何だろう?
 まさか雪でもあるまい。手にとって見るとそれは桜の花びらだった。
 桜、春か。春。
 わたしは掌に乗せた桜の花びらを眺めた。気付くと列車は桜並木の中を走っていた。満開の桜が花びらを降らせていた。
 わたしの隣にはさっきから直立不動の車掌が突っ立っていた。
「春だね」
 わたしは車掌へと陽気に声をかけた。けれど車掌の声は哀しげだった。
「春ですね。後はもう」
「後はもう?」
 問い返すわたしに車掌はゆっくりと答えた。
「ただ後はもう、夏だけが残されました」
 夏だけが、1945年の夏だけが、残された?
 もう引き返せないんですよ。もう、なにもかも。
 わたしたちは、そこへ向かっているのです。

 わたしの掌に残った桜の花びらにふっと息を吹きかけ、わたしは桜の花びらを風の中に返した。春の夜空には満天の星が瞬いていた。

 
 (二十六)街灯り駅

 桜並木が途絶え再び列車は殺風景な地上を走り続けた。やがて遠くに灯りが見えた。
「次は街灯り駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」
 街灯り駅?ではあれは駅の灯りか?しばらくすると駅に到着した。列車はホームへと静かに停車した。駅のまわりはまっ暗で駅の灯りだけが闇の中に浮かんでいた。静かだった。まるで時が止まったかのような静けさ。ホームにはベンチがひとつ置かれていたが人影などなく、時より風が吹いて草の葉を揺らすだけだった。サヤサヤ、サヤサヤ、波音のように。小波、波。その駅はまるで暗黒の海に浮かぶ小島のように思えた。今にも暗黒の波に飲み込まれてしまいそうな。
 わたしはホームに降りる気になれず列車のシートに座ったままうとうとし始めた。すると物音がひとつ聴こえた。ぴくりと目を覚ましわたしはあたりを見回した。ん?闇の彼方に小さな灯りが見えた。何の灯りだろう?それは段々と大きくなってこっちへ近付いて来る。ゆっくり、ゆっくりと。何だ?人か?
 それは男だった。男がひとり灯りを手にして列車へと近付いて来た。何者だろう?男は軍服を着ていた。男のブーツの音が重々しくホームに響いた。その音はわたしの車窓の前でぴたりと止まった。

「大統領」
 男はわたしを見た。何?また大統領か。
「説明に参りました」
「説明?」
 わたしは男へと口を開いた。
「例の計画の」
 男は答えた。例の計画?例の?マンハッタン計画のことか?
 そうか。けれど、もはやわたしにはおおよその見当はついていた。マンハッタン計画。マンハッタン計画とは?
「そうだったね。よろしく頼むよ」
 大統領と呼ばれたわたしは男に答えた。例によってわたしはすべてを悟った。わたしは新たに就任したばかりの大統領で、男は陸軍長官Sだった。
 大統領と呼ばれたわたしはホームに降り男とふたりでベンチに座った。サヤサヤ、サヤサヤ、草の音だけが聴こえていた。男の説明を聴きながらなぜか大統領と呼ばれたわたしは眠気を覚えた。
「大統領!」
 男はうとうとしてしまった大統領と呼ばれたわたしを大きな声で呼んだ。
「おお、すまない」
「大丈夫ですか?」
「ああ、何しろ突然の大統領就任でね。激務が続いて」
「無理もありません」
 おや、ふと見ると男の軍服の肩に桜の花びらが一枚留まっていた。何処から飛んできたのか、花びらはにこにこ笑っているように思えた。その場所が気に入ったのかね?その男の軍服の肩が?わたしは花びらに話しかけたくなった。
「それで?」
 大統領と呼ばれたわたしは突然男に問いかけた。
「それで?」
 驚いた男は大統領と呼ばれたわたしを見た。
「それでその新型爆弾で、桜も死ぬのかね?草も?風も?街の灯りも?」
「え?」
 大統領と呼ばれたわたしの意外な質問に男は困惑したように大統領と呼ばれたわたしを見返した。何を愚かなことを聴いているのだ、わたしは。こんなことを聴いて何になる。
「いや、いいのだ。気にせんでくれ」
 諦めたように大統領と呼ばれたわたしは笑ってごまかした。

「これで説明は終わりです」
「そうか、有り難う」
 男はベンチから立ち上がった。男が歩き出す。サヤサヤ、サヤサヤ、草の音に混じって男の重々しいブーツの音が再びホームに響いた。
「ああ、そうだ」
 大統領と呼ばれたわたしは突然声を上げた。男は驚いて振り返った。その瞬間彼の肩に留まっていた桜の花びらがひらりと落ちて風に舞った。
「何でしょうか?」
「大事なことを忘れていた」
 桜の花びらの行方を目で追いながら大統領と呼ばれたわたしは尋ねた。
「それは、いつ完成するのかね?」
 突然風が止み草の音が途絶えた。風を失った桜の花びらはまっすぐにホームへと落ちた。
「4カ月」
「なに?」
「ええ、あと4カ月以内には完成いたします」
 なに、そうか。
「有り難う。呼び止めてすまなかったね」
 男の足音が遠ざかりやがてあたりは闇と静寂に帰った。

 ベンチから立ち上がった。ホームに落ちた桜の花びらを拾おうとしてわたしは花びらへと歩いた。あと4カ月。花びらをつかもうとしてしゃがみ込み、今は春、あと4カ月ならば、何?花びらをつかもうと花びらに手を伸ばした瞬間。4月、5月、6月、7月、8月?突然風が吹いて花びらはわたしの指先から遠ざかった。おお、待ってくれ。
 何、8月!
 そのまましばらくわたしはホームにしゃがみ込んでいた。とうとうわたしは桜の花びらの行方を見失ってしまったらしい。
「そろそろ発車の時刻でございます」
 発車のベルが鳴った。

 
 (二十七)ある夢

 街灯り駅の灯りが遠ざかると地上はまたまっ暗になった。長いトンネルにでも入ったかのようなそれは永い永い闇で空に星の瞬きすら見えなかった。わたしはただぼんやりと暗い窓ガラスに映る自分の顔を眺めていた。
 ふとその時わたしは夢を見た。それは眠りの中の夢だったか、それとも暗い窓ガラスに映った幻想だったのか定かではない。ただいずれにしろそれは奇妙な夢だった。その夢とは。

 いずこよりひとりの男が現れた。男はその卓越した弁舌と天才的政治能力であっという間にその国の大衆を虜にした。大衆が気付いた時その国はもう既に男に支配されていた。男は独裁者と呼ばれた。
 男は世界征服の野望を抱き戦争を起こした。それは次々と世界の大国を巻き込み、世界規模の戦争へと拡大した。戦争は何年も続いた。男は迫害と虐殺のため世界から非難された。男は悪魔と罵られた。
 長い戦争の後、けれど男は敗北した。男が自殺したという報道がすぐに世界中を駆け巡った。誰もがそれを信じた。男の敗北と死に世界中が歓喜していたその時、けれどわたしは見た。ひとりの男が人知れぬ闇の中を黙々と歩いていた。そこは地下か山奥かあるいは砂漠か海底か場所はわからない。
 やがてその男はある場所に辿り着いた。そこには男を迎える者たちが待っていた。誰かが男の耳にささやいた。
「ご苦労だった。すべては計画通り。後はゆっくり休みたまえ」
 そして男はいずこへと消えた。後には戦争によって打ちのめされた世界だけが残された。

「どうかなさいましたか?」
 ふと人の声に夢は終わった。わたしは目を開いた。声は車掌だった。
「うなされていらしたようですが、悪い夢でも?」
「うなされていた?わたしがか?」
 もう既にわたしの中から夢の記憶は失われていた。
「ええ。でももう大丈夫のようですね」
 そう言い終わると車掌はさっさと歩き去った。
 再びわたしは暗黒と静けさの中に残された。静けさの中にそしてノイズが聴こえてきた。またか。わたしはつぶやいた。やがて例によってノイズに混じってラジオ放送が聴こえてきた。声は叫んだ。
『ベルリン陥落』
 何?
 何と言った?
 けれど声はすぐに大歓声に飲み込まれた。何という歓声。それはどんどん大きくなり熱狂と興奮に包まれた。歓声が一段落ついた後、再び声が叫んだ。
『ドイツが無条件降伏』
 おおーーーーー!
 再び歓声が甦った。
 万歳と手を上げる人々。
 抱き合う人々。
 踊る若者たち。
 人々は叫んだ。
「とうとう悪魔が滅びた」
「戦争は終わった」
 民衆の大歓声はいつ尽きるともなく続いた。
 やがてすべてはノイズに吸い込まれ、ノイズも消えた。また暗黒と静けさだけが残った。

「ちがう」
 思わずわたしはつぶやいた。
 誰もいない暗い窓ガラスに向かって。窓に映ったわたしの影に向かって。
 悪魔は滅びてなどいない。
 戦争は終わっていない。
 いや、そして戦争は終わらない。
 もう引き返せないんですよ。もう、なにもかも。
 わたしたちは、そこへ向かっているのです。
 車掌の言葉を再びわたしは思い出した。

 
 (二十八)離脱者

 列車は暗黒と静けさの中を黙々と走り続けた。やがて遠くに灯りが見えた。どこか見覚えのある灯りの群れ。どこだ、ここは?わたしは記憶を辿った。ここは確か。
 そうだ、ここはロスアラモス!
 人里離れた山奥に建つ研究所。しかし、またなぜここへ?そう思う間もなく列車は止まった。目の前には研究所の門があった。相変わらず固く閉ざされた門。
 ドアが開くわけでもなく列車はしばらくそこに停車していた。どうしたのだ?わたしはシートに座ったまま待った。何を?列車が再び動き出すのを?それとも車掌が事情を説明しにやってくるのを?いや、そうではない何かを予感のようにわたしは待っていた。なぜだかわからないが。あたりはしーんと静まり返っていた。

 静寂を破り突然音がした。研究所の門が開く音だ。何だ?わたしは息を殺し事態を見守った。門が開くとひとりの男の姿が見えた。男は守衛とひと言ふた言言葉を交わし、それから研究所の外へ足を踏み出した。男を残し研究所の門は再び閉まった。誰だろう、あの男は?なぜ研究所から出たのだろう?
 研究所の門が閉まるとすぐに今度は列車のドアが開いた。何というタイミング!まるであの男を待っていたかのようではないか?そして男は列車へと乗ってきた。男が乗車するとすぐに列車のドアは閉まり、列車は走り出した。静まり返った山の中を。
 
 男はシートを探しわたしの車輌へと移動してきた。男は段々とわたしのシートに近付き(わたしのシート以外は空いているのに)男はわたしの座るシートの前で足を止め、わたしの向かい側のシートに座った。なぜだ?あるいはまたか、とわたしが思うより早く男はわたしに声をかけて来た。
「所長」
 何?
 しかし次の瞬間わたしはその研究所を出た男に向かってこう答えていた。
「どうしたのだね?」
 例によって無意識に。わたしは研究所を出た男がわたしに向かって呼んだ『所長』として、あの山奥の研究所の所長として、今男と向かい合っていた。男は科学者だった。
「研究を止めたいそうだが」
 所長と呼ばれたわたしは科学者に問いかけた。科学者は叫ぶように言った。
「ええ。ドイツが降伏したのですよ」
「ああわかっている」
 所長と呼ばれたわたしは静かに答えた。
「だったらもはやこんな研究など必要ないではありませんか?」
「しかしきみ」
「なぜまだこんな研究を続けるのですか?」
「わたしたちは」
「わたしたちはドイツに対抗するためにこの研究を始めたのですよ」
「ああそうだが」
「ではもう必要ないではありませんか?」
「しかしこれは、この研究は」
 科学者と、所長と呼ばれたわたしとの話し合いは平行線を辿った。所長と呼ばれたわたしの言葉は歯切れが悪かった。
「それでは仕方がない」
 長い議論の末、所長と呼ばれたわたしはその科学者が研究所を出てゆくことを認めた。

 疲れたわたしは列車の暗い窓ガラスに目を移した。長く長く続く暗黒の中にふとわたしは小さな光、瞬きを見つけた。おや、何だろう、あれは?
「きみ。何だろうね、あの光は」
 わたしは研究所を出た男に問いかけた。さっきまで議論をしていたあの男。けれどもう男の姿はなかった。
 遠くで車掌の声が聴こえた。
「次はほたる駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」

 
 (二十九)ほたる駅

 暗い窓ガラスの彼方に明滅する光が現れた。何だろう、あの光は?ネオンライトのようにも見えるが。列車は光へと近付いていった。ゆっくり、ゆっくり。そして列車は止まった。
 そこは駅だった。
 では、ここがほたる駅か?瞬く光はほたる?わたしはホームの端から端まで見渡した。無数のほたるの火が駅を包み込むように飛んでいた。わたしは息を飲みその幻想的な風景に魅せられた。辺りは心臓の鼓動さえ聴こえる程静かだった。

 ふと物音が静けさを壊した。何だろう?音のした方角に目を移した。ホームの外れ。そこに人影があった。何?どうして今まで気付かなかったのだろう?ほたるの光に魅せられていたせいか?わたしは恐る恐るその人影を見た。男のようだが。ひとり、ふたり、四人だ。男たちは椅子に座りひとつのテーブルを囲んでいた。何をしているのだろう?わたしは気になった。列車を降りて近付いて見ようか?わたしは迷った。その時ひとつのほたるの火がわたしの窓辺に降りてきた。その光はわたしを誘うように瞬いた。わたしについて来い、とささやく様に。わたしはほたるの後を追って列車を降りた。ほたるの火の渦の中をホームの外れへと歩いた。わたしが男たちの前に辿り着くと、わたしを導いたほたるは光の群れの中に消えわたしだけが残された。我に返ったわたしは男たちを見た。男たちはまだわたしに気付いていなかった。
 男たちはそれぞれ手に何かを持っていた。何だろう?恐る恐るわたしは男たちに近付き、それを見た。それはカードらしきものだった。トランプ?何だ、トランプ遊びか?わたしは緊張が解け,体の力が抜けた。しかし、こんな所でなぜトランプなど。その時ほたるの火が一斉に点った。何という眩しさだろう。あたりは昼間のように明るく映し出された。
 その時わたしは見た。男たちが手にしたカードの中に『文字』が記されているのを。ん、何だ?その文字は?何と書いてあるのだ?わたしはどうしても何と書いてあるのか知りたくてついつい顔を近付けカードを覗き込んだ。ところがそれでも男たちはわたしに気付かなかった。はて?なぜだろう?男たちを気にしながらもわたしは大胆にカードの文字を読んだ。それぞれ四枚のカードにはこう記されていた。
 "kyouto"
 "hirosima"
 "yokohama"
 "kokura"
 なに?これは、あの国の、都市の名前ではないか。一体どういうことだ?再びほたるたちが点滅を始めた。その点滅のリズムはわたしの心臓の鼓動と重なった。
「おい」
 思わずわたしは男たちに向かって叫んだ。
「きみたちは、何をしているのかね?」
 けれど男たちは動かなかった。もしかしてわたしに気付いていないのか?わたしが見えないのか?その時背後で誰かが叫んだ。
「国務長官ーー!」
 すると男たちは一斉に振り返った。彼らの目はわたしを飛び越え、わたしもつられて振り返った、するとそこにわたしの目の前にひとりの男が立っていた。その時不思議な現象が起こった。叫んだ男はそのまま前進しわたしと正面からぶつかった。確かにぶつかったはずだった。ところが何と!気付いた時男とわたしは一体化し(わたしの存在は失われ)、男は何もなかったようにテーブルの男たちへと歩いていった。
 その男とは科学者Sだった。どうしてきみはこんな所へ?しかもたったひとりで。
『きみ、聴こえるかね?』
 わたしは彼の内部から彼に向かってささやいてみた。けれど反応はなかった。やはりわたしの声は聴こえないのか?けれど彼の内部にいる以上なんとなく彼の気持ちはわかる気がした。おそらくはあの新型爆弾製造の計画中止を訴えに来たのだろう。
 きみもやっと気付いたのだね。わたしたちの手紙からすべては始まり、やがて時は流れ、今やドイツは降伏し、あの国だけが残された。
「わたしの話を聴いて下さい」
 彼は叫んだ。わたしは何とか彼の力になりたいと思ったが、今のわたしは彼の内部にいながら為す術もなくただ彼と男たちとのやり取りを傍観しているしかなかった。
「まあまあきみ、落ち着きたまえ」
 ひとりの男が立ち上がった。
「国務長官、ぜひお話を」
「わかった、わかった。ではあそこで話そう」
 国務長官と呼ばれた男は列車を指差し列車へと歩いた。彼は国務長官と呼ばれた男の後を付いていった。
 列車の中で行われたふたりの会談は平行線を辿った。彼は最後まで必死で食い下がった。
「もういいかね?」
 国務長官と呼ばれた男は立ち上がった。
「委員会を待たせてあるのだよ」
「委員会?何の委員会ですか?」
 彼は尋ねた。
「重要な」
 答えながら国務長官と呼ばれた男は列車のドアへと歩き出す。彼は国務長官と呼ばれた男を逃がすまいとして咄嗟に国務長官と呼ばれた男の腕を掴んだ。
「離したまえ、きみ」
 国務長官と呼ばれた男は彼の手を振り払おうと彼を突き放した。その拍子に彼は転んで列車の床に倒れた。
「痛い」
 彼が叫んだその瞬間スーッとわたしは彼から離れた(再びわたしはわたしとして存在した)。彼は倒れたまま立ち去ってゆく国務長官と呼ばれた男の背中に尋ねた。
「何の委員会ですかーーーっ?」
 国務長官と呼ばれた男は振り返り静かに答えた。
「標的委員会」

「標的?」
 わたしは彼を列車に残し、国務長官と呼ばれた男の後を追った。ホームにはほたるの火が瞬いていた。その心臓の鼓動にも似た光の明滅は生命の美しさ、はかなさをわたしに語りかけた。限りある生命を懸命に生きようとする生きものの、そして人々の生命の輝き、瞬き、吐息、鼓動。
「標的委員会とは何だ?」
 わたしは大声で叫んだ。けれど気付く者は誰もいなかった。わたしの脳裏に男たちが手にしていたカードの文字が甦った。
 "kyouto"
 "hirosima"
 "yokohama"
 "kokura"
 まさか。いやもしかして標的とは新型爆弾投下の標的のことか?
 待て、きみたち!
「いや、待たせたね」
 国務長官と呼ばれた男はホームの外れのテーブルに戻った。
「科学者との会談は済みましたか?」
「ああ、なんとか」
「それでは委員会を始めましょう」
 ひとりの男が一旦カードを集めた。
「別のカードをひとつ加えます」
 男たちの間で議論が交わされ、時が過ぎた。
「それでは、この中から選んで下さい」
 カードを持っていた男が三人の男たちの前にカードを広げた。そして一人の男がカードを引いた。カードにはこう記されていた。
 "kyouto"
 また別の男がカードを引いた。カードにはこう記されていた。
 "hirosima"
 最後の男がカードを引いた。カードにはこう記されていた。
 "niigata"
 突然ほたるの火が消えた。辺りは暗黒と沈黙の中に沈んだ。なんということだ。標的とは新型爆弾を投下する都市のことではないか。都市。川が流れ、風が吹き、雨が降り、雪が舞い、朝が訪れ、昼と夜が流れ、四季が駆け巡る。時の流れの中、そこでは幾千万の人々が生き暮らし、花や草や木や動物、虫たちが生きている。なのにその生命を運命をまるでトランプカードで決めるかのように、委員会などと。
 今や世界は暗黒と沈黙の中に沈んでいる。もはやわたしの力ではどうにもならない。この世界には、どうやらわたしの力など及びもしない何か、この世界を意のままに動かす闇の力が存在するようだ。

「大統領」
 再びほたるの火が灯った時そこには一人の男が立っていた。男はじっとわたしを見ている。ん?わたしがわかるのか?男はもう一度叫んだ。
「大統領」
 辺りを見回したが誰もいない。
「わたしのことかね?」
 不安そうにわたしは尋ねた。
「勿論ですとも」
 男は大きく頷いた。誰だろう?見覚えのある顔。
 そうだ。わたしは思い出した。男は、街灯り駅で大統領と呼ばれたわたしにマンハッタン計画について説明した陸軍長官Sだった。
「ああ、きみか」
 わたしは手を差し出し握手を交わした。
「委員会の報告に参りました」
 男は言った。
「委員会?」
 また委員会か?何の委員会だ?男とわたしはベンチに腰を降ろし、わたしはほたるの火を見つめた。男は話を始めた。
「委員会の結論としまして」
「うん」
「あの国に対する事前の警告ですが」
 なに、あの国に対する事前の警告?何の警告だ?そして何の事前?ほたるの火から目を離しわたしは男を見た。男の目にほたるの炎が映っていた。
「事前の警告は、行わないということで決定しました」
 ん?事前の警告は行わない?だから何の警告なのだ?
「ということは?」
 わたしは冷静を装い問い返した。
「警告なしで投下するということです」
 なにーーーーー。
 警告なしで投下?投下とは勿論あの新型爆弾投下のこと?
 それでは新型爆弾を警告なしにあの国に投下すると?まさか、なぜ?
「そうか、わかった」
 けれど大統領と呼ばれたわたしの口から出た言葉はそれだった。自分の口でありながらなぜか思うように動かすことが出来なかった。まるで時の流れが既に過ぎ去った過去への抵抗を拒むかのように。わたしの頭の中はまっ白になり、わたしの心は灰色の雲で覆われた。なにがなんだかわけがわからない。どうして世界はいつもこんなふうに最悪の選択をしてしまうのだ?
 なぜ?なぜ警告をしないのだ?警告をすればあの国が降伏を選択するかもしれないではないか?そうなればもはや投下の必要などなくなる。なのになぜ?
 まさか?これではまるで最初から投下が、投下することが目的?
「ご苦労だった」
 けれど大統領と呼ばれたわたしの口から出た最後の言葉はその一言だった。
 そしてすべてのほたるの火は消えた。まるでわたしの希望の灯がすべて消え去るように。今わたしはただここにこうして抜け殻として存在しているに過ぎなかった。
 男はベンチから立ち上がり歩き始めた。
「きみ」
 ふいに口が軽くなり大統領と呼ばれたわたしは男を呼び止めた。男は不安げに振り返った。わたしは尋ねた。
「きみ、今日は何日だったかね?」
「え?」
 男は少し間を置いて答えた。
「6日です。6月6日」
「ああ、6月6日か」
 その時突然雨が降り出した。激しい雨だ。雨にずぶ濡れになりながらわたしは男に向かって話しかけた。
「まるでTsuyuのようだね」
「Tsuyu?」
 男は尋ねた。
「あの国のね。6月から7月にかけて雨季があるのだが。その時期をあの国ではTsuyuと呼ぶのだよ。それは激しい、それは、それはまるで空が号泣、号泣しているかのような激しい雨なのだ。そしてその季節が終わると待っていたかのように暑い暑い夏が訪れる」
「大統領、感傷的になられるのもわかりますが、今は」
「わかっているよ。呼び止めてすまなかった」
 男は再び歩き出し雨の彼方に消えていった。雨の中に取り残されたわたしはしばらくそこに立っていた。ずっと立っていた。ずっといつまでも、いつまでも立っていたかった。

 傘に当たる雨音で我に返った。振り返ると車掌が立っていた。車掌の傘がやさしくわたしを包んでいた。
「そろそろ発車の時刻でございます」
 発車か。
 けれどわたしはもうこれ以上先に進みたくなかった。出来るなら引き返したかった。或いはずっとこの駅にいてこの雨に濡れていたいと思った。けれどそれは叶わぬことだとわかっていた。時を止めることが人には叶わぬ願いであるように。
「ああ、そうだったね」
 傘に当たる雨音を聴きながらわたしは答えた。
 わたしたちが列車に乗ると雨はぴたりと止んだ。すぐに汽笛が鳴りドアが閉まった。列車は暗い駅のホームをゆっくりと走り出す。とうとうほたるの火は消えたままだった。もう一度あのほたるの火が見たかった。あの生命の灯し火を。わたしは何度も何度もまっ暗なほたる駅のホームを振り返った。

 
 (三十)線香花火駅

「次は線香花火駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」
 雨の季節を駆け抜け、列車はとうとう真夏へと突入した。車窓から見上げる夏の星座が美しかった。
 列車は次の駅に到着しプラットホームに停車した。ホームは薄暗かった。暗いホームを見渡すと何やら人影があった。良く見るとどうやら子どもたちのようだ。
 一体何をしているのだろう?
 子どもたちはひとかたまりになってしゃがみ込んでいた。じっと見ていると不意にひとりの子どもが顔を上げた。わたしと目と目が合った気がした。薄暗いせいで顔の表情はよく見えなかったが何だか悲しげな雰囲気をその子は漂わせていた。その子はわたしに手招きをした。
 何だろう?
 わたしは誘われるまま列車のシートを立ちホームに降りていった。突然子どもたちのまん中に光が灯った。何だろう?それは小さな光。マッチの炎だ。子どものひとりがマッチの火を点けたらしい。何をするつもりなのだろう?わたしはゆっくりと子どもたちに近付いた。今度は別の子が手に持っている何かをそのマッチの火に近付けた。
「きみたち、何をしているのかね?」
 わたしは子どもたちに声をかけた。子どもたちは驚いて怯えながら振り返った。マッチの火が燃え尽きた。
「ああ、すまない。すまない」
 わたしは謝った。子どもたちはひそひそささやきあっている。
「一体何をしているのだね、こんな所で」
 再び問いかけると、さっきわたしを手招きした子どもが小さく答えた。
「せんこうはなび」
 ん?
 線香花火?あの国の花火ではないか。わたしは子どもたちをじっと見つめた。
「きみたちは何処の国の子どもたちだね?」
 そう問いかけた瞬間、再びマッチの火が点った。子どもたちはわたしのことなど忘れマッチの炎を見つめた。何だろう、異様な緊張感が子どもたちの間に漂っている。わたしも黙ってマッチの炎を見つめた。どうしたのだ?これはただの花火ではないのか?
 線香花火を持った子どもが再び線香花火をマッチの火に近付けた。マッチを持つ子どもも線香花火の方の子もどちらも指が震えていた。他の子どもたちはじっと黙って二人を見守っている。ドキドキドキドキ、恐る恐る、線香花火の先端にマッチの火が移った。その瞬間突然空が光った。何と眩しい、まるで空が燃えているようだった。
「何だ、あの光は?何が起こったのだ?」
 叫びながらわたしは空を見上げた。雷か?そう思う間もなく今度は大地が揺れた。
「おおーー」
 わたしはよろめきホームに倒れた。一体何だ、何が起こったのだ?とその時わたしは微かに声を聴いた。確かに聴こえた気がした。

『もしもし。そちらはポツダムにおられる陸軍長官でしょうか?』
『そうだ』
『こちらはニューメキシコ。手術は無事成功しました。以上』

 手術?その時わたしの脳裏にさっき見た空の閃光が甦った。
「手術とは何のことだ?」
 起き上がりながらわたしはつぶやいた。再び空を見ると空はもう平静を取り戻していた。そこには降るような銀河が瞬いていた。わたしは子どもたちのことを思い出した。あの子たちは大丈夫だったろうか?
「おおーい」
 わたしは大声で子どもたちを呼んだ。突然ホームにほのかな光が灯った。それは細い細い糸のような光。
 線香花火だ。子どもたちは何もなかったように静かに線香花火をしていた。線香花火に火を点し、線香花火はすぐに燃え尽き、そしてまた新たな線香花火に火を点す。子どもたちはただ黙ってそれを繰り返し、黙ってそれを見守っていた。ふとわたしの中にさっき耳にした声が甦った。
『こちらはニューメキシコ。手術は』
 手術?
 手術とは何のことだ?
 ふとわたしの脳裏に、風に舞う桜の花びらが浮かんだ。桜、さくら。あの街灯り駅で大統領として交わした会話が甦った。
『それは、いつ完成するのかね?』
『あと4カ月』
 手術が成功した。成功した手術とは?
 そうだ。
 おそらく、完成したのだろう、ついに。
 わたしは全身の力が抜けぼんやりと子どもたちの線香花火を見つめた。すると。
「おじさん、どうしたの?」
 沈んだわたしの様子に気付いたのか、ひとりの子どもがわたしに声をかけてきた。また別の子がそしてまたひとりまたひとりと。子どもたちはわたしを取り囲んだ。
「何だか悲しそう」
「何か心配でもあるの?」
 きらきらと澄んだ目がわたしを見つめた。わたしは胸がいっぱいになった。
「おじさんは大変なことを」
 わたしは息が詰まって言葉が続かなかった。

 その時列車の汽笛が鳴った。
「そろそろ発車の時刻でございます」
 車掌の声が聴こえた。するとそれを合図に子どもたちの姿が消えはじめた。
 え?
「おい、待ってくれ、きみたち」
 けれどひとりまたひとり子どもたちは消えてゆき、とうとう最後にはわたしだけが、そして線香花火の燃えかすだけが残された。
 発車のベルが鳴りやがて鳴り止んでも、わたしはホームに突っ立っていた。
「お客さん。お急ぎ下さい」
 車掌が心配してホームに降りてきた。けれどわたしは乗車を拒否した。
「いや、わたしはもういいのだ」
「そんなわけにはまいりません」
 車掌は必死で説得した。
「いいのだ、わたしはもうここで。懺悔、永久の懺悔を」
「お気持ちはわかりますが」
「気持ち?」
 車掌に問いかけようとしたその瞬間わたしの声を遮るように汽笛が鳴った。
 ボォーーーー。
「はやく」
 車掌は大声で叫びわたしの腕を掴んだ。ドアが開いたまま列車が走り出した。
「さあ飛び乗って下さい」
 車掌は拒むわたしの腕を引っ張った。すごい力だ。列車のドアが閉まる。
 気付いたらわたしは車掌と一緒に走る列車の床に転がっていた。
「間に合いましたね」
 息を切らしながら安堵する車掌。車掌を見ると、何と車掌の帽子がずれていた。おや!飛び乗った拍子にずれたのだろう。
 その時わたしは、車掌の顔を見た。

「きみ!」

 わたしは思わず声を上げた。
 一瞬間を置いて顔を見られたことに気付いた車掌は慌てて顔を手で隠した。それからすぐに帽子を引っ張り下ろし、いつものように顔を覆った。
「きみは」
 車掌はわたしの声を振り切るように急いで立ち上がり無言のまま隣の車輌へと消えた。わたしもまた余りのショックに呆然と床に座ったまま遠ざかる車掌を見送った。ただもうわたしはショックで。ところが突然列車の中がまっ暗になった。
「どうした?トンネルか?」
 叫んだが返事はなかった。

 
 (三十一)海鳴り

 不意に海の音が聴こえた。遠く微かに、けれど確かに、それは少しずつ大きくなり、やがて海鳴りとなり。
 突然闇が消え列車はかすかな明るさの中に出た。辺りは濃い霧が立ち込めていた。霧の中にぼんやりと灯りが瞬いている。何の灯りだろう?そしてここは何処だろう?海鳴りは続いていた。海鳴りは少しずつ強さを増し、やがて海鳴りに混じって何かが聴こえて来た。
 ボォーー。
 汽笛?船の汽笛だ。そうか、もしかしてここは港?ではあの灯りはハーバーライトか?
 霧の中に浮かぶハーバーライト、海鳴り、カモメたちのざわめき、波が砕け散る。わたしの耳は波の音でいっぱいになる。砕け散る波、波のしぶき、押し寄せては引いてゆく、押し寄せては引いて、波が押し寄せては、波、波?
 なにい、波だ!
 足が冷たい。波がわたしの足元まで押し寄せている。立ち上がり逃げようとした瞬間、けれど。おおーー!
 巨大な波がハーバーライトに沿って走る列車を襲った。一瞬にして列車の床は海の一部と化しわたしはずぶ濡れになった。
 そのまま列車は止まった。
「ご無事でしたか?」
 遠くから車掌が息を切らしてやって来た。
「無事なものか、この有様」
 と今度は耳をつんざくような汽笛が鳴った。それは大地を揺るがせ嵐を呼び起こすかのようだった。わたしは耳を塞いだ。
「何だね、さっきから。一体どうなっているのかね?」
 汽笛が鳴り止んだ後わたしは尋ねた。車掌は静かに答えた。
「巡洋艦ですよ」
「じゅんようかん?」
 車掌が窓の外を指差した。見ると霧の中に巨大な黒い影が横たわっていた。
「あれかね?」
 車掌は無言で頷いた。霧が薄らぎ始めた。やがて霧が晴れ巡洋艦がその全容を目の前に現した。
「何という、何という巨大な船だ!」
 しばらくわたしはじっと巡洋艦を見つめていた。海も穏やかになりしおざいだけが耳に響いた。
「これから出航するのです」
「出航?この船が?何処にゆくのだ?戦場?」
 わたしは初めて巡洋艦から目を離し周りを見回した。列車は埠頭の外れに停車していた。
「ここは駅なのかね?」
 車掌に尋ねた。
「いいえ。先程の波のため、緊急停車いたしました」
「なるほど。緊急」
 何気なくわたしは埠頭に並べられた荷物を見た。山積みの荷物。
「すごい荷物だね」
「え?」
「ほら、あそこ。全部、あの船に載せるのかね?」
 車掌はわたしが指差す方角に目を向けた。その荷物を目にした途端なぜか急に車掌は震え出した。
「どうした?」
 わたしは心配になり車掌に声をかけた。その時突然何処からか無数の男たちが現れ、埠頭の荷物を運び始めた。荷物は次々に巡洋艦へと運び込まれた。男たちは黙々と荷物を運び続けた。そこには異様な緊張感が漂っていた。この張り詰めた空気。まるで線香花火駅のホームで子どもたちの間に漂っていた、あの線香花火に火を付ける前の緊張感と同じ。あの荷物は一体何なのだ、あれは?
「あれは」
 呻く様に車掌がつぶやいた。
「大丈夫かね、きみ?どうしてそんなに震えているのだ?寒いのか?さっきの波で風邪でも」
 けれど車掌はわたしの問いには答えず思いもかけない一言をつぶやいた。
「しょうねん」
 車掌はその言葉と同時によろめきわたしの腕に倒れ込んだ。
「おい、しっかりしろ」
 弱弱しく顔を上げた車掌は健気に言葉を続けた。
「ちいさい」
「ちいさい?もういいから、黙っていたまえ」
 けれど車掌はなおもつぶやいた。
「はちがつの、しょうねん」
 そして車掌は意識を失った。
「おい、きみーー!しっかりしたまえ」
 わたしは叫んだ。一体どうしたのだ?あの荷物を見ただけで。あれは、あの荷物は何なのだ?

 ボォーーーー。
 巡洋艦の汽笛が鳴った。車掌が意識を取り戻した。
「大丈夫かね?」
「ええ」
「それなら、よかった」
 荷物のことを尋ねたかったがわたしはただ黙って艦を見ていた。
「とうとう出航のようだ。これから戦場へと出てゆくのだね」
 ところが車掌は。
「戦場ではありません」
「何?それでは何処へ?」
 わたしは尋ねた。車掌は答えた。
「テニアン」
「え?」
 一瞬その言葉を思い出せなかった。
 テニアン?けれどわたしはすぐに思い出した。
 そうだ、終着駅!
 この列車の、そしてわたしのこの旅の終わりの駅、テニアン。
 そしてそれは島の名前。あれは確か夕映え駅に到着する前、わたしがひとりの兵士として戦死した島だ。
「それでは、わたしたちもテニアンへゆくのかね?」
 興奮を抑えながらわたしは尋ねた。けれど車掌はいつものように静かに答えた。
「その前にわたしたちはもうひと駅、立ち寄らなければなりません」
「もうひと駅?そうか」
 それきりわたしたちは黙った。そしてわたしたちは静かに巡洋艦を見送った。海鳴り、海の波が艦に絡まるように押し寄せては引いた。押し寄せては砕け散り、波は(海は)、まるで巡洋艦を引き止めるかのように何度も何度も艦へと押し寄せてはけれど砕け散った。巨大なあの艦を引き止めることなど誰にもできはしない。それは叶わぬ願いだった。波のうねりを振り払いやがて巡洋艦が水平線の彼方へと消えると、波たちは力尽きたように静まり後にはただ穏やかな潮騒だけが残された。

「そろそろ、発車の時刻でございます」
 列車もまた走り出した。列車はハーバーライトの波を駆け抜け、気付いたらもう潮騒の聴こえない場所まで来ていた。
「次は夜市駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」

 
 (三十二)夜市駅

 夜市?終着駅を間近に控えて夜店とは。
 駅に到着すると夜だというのにホームには大勢の人が立っていた。どうしてこんなに人がいるのだろう?みんな列車を待っていたのだろうか?列車のドアが開くと人々は勢い良く列車に乗り込んできた。わたしの車輌にも大勢の人が押し寄せた。子ども、大人、老若男女。
「寄ってらっしゃーーい」
 突然威勢のいいかけ声が上がった。
 何だ?見るといつのまにか列車の中に夜店が並んでいた。ほんの一瞬のことだ。どうなっているのだ?あちらこちらから人々の歓声が沸き上がる。成る程この駅では列車自体が夜店というわけか、それで夜市駅。
 最初は目を丸くしていたわたしも人々の賑わいに慣れ何だか心が浮き浮きしてきた。まあ、いいではないか。たまには賑やかなのも悪くない。折角だからわたしも見て歩くとしよう。そう思ってシートを立った時ざわめきに紛れてひとつの声が聴こえて来た。

「大統領」
 ん?
 浮かれた気分が吹っ飛び夢から醒めたように辺りを見回した。耳を澄ますとその声は隣の車輌から聴こえて来る。わたしは人込みを掻き分け隣の車輌に移動した。そこには長い客の列があった。何の店だ?前へ歩いて見るとそこは綿菓子屋だった。
 綿菓子屋の客たちは何か熱心に話し合っていた。客のひとりが叫んだ。
「大統領」
 何?ピクリとわたしは反応した。わたしのことか?けれど客の言葉は。
「大統領だ!今すぐ大統領に訴えよう」
 何、そうか。わたしを呼んだのではなかったのだな。わたしは安堵しながら客の列の最後に並び彼らの話に耳を傾けた。一体何を訴えるというのだ?
「しかし驚いたな」
「まさかあんなに凄まじいものだとは」
「悪夢だ、まさにあれは悪夢だ」
 彼らの様子には緊迫感が漂っていた。ひとりがつぶやいた。
「もしあんなものがこの地上の何処かに」
 彼らは息を飲みそれから声を揃えて叫んだ。
「計画を中止させなければ」
 計画?すると綿菓子屋の店主も叫んだ。
「それが、この計画に携わったわたしたち科学者の使命だ」
 科学者?さらに客たちのシュプレヒコールが上がった。
「そうだ、わたしたちはやらなければならない」
「今すぐ大統領に訴えよう」
 綿菓子屋の客たちは自分の順番が来ると綿菓子屋の屋台に置かれた用紙に何かを書いていた。何だろう、あの用紙は?みんな何を書いているのだ?不安になりながら後ろを振り返るといつのまにかわたしの後にも大勢の客が並んでいた。みんな真剣な眼差しをしている。わたしは雰囲気に呑まれその場から立ち去ることが出来なかった。
 とうとうわたしの順番がやって来た。わたしは恐る恐る綿菓子屋の店主と向かいあった。その瞬間なぜかすべての客の姿が消え、そこには店主とわたしのふたりだけが残された。わたしは目の前の店主の顔を眺めそして息を飲んだ。
「おお、きみ!」
 それは科学者Sだった。彼は静かに頷きわたしに綿菓子を差し出した。わたしはそれを受け取り綿菓子の棒を握り締めた。
「いいんだよ。遠慮せずに食べて」
 彼の言葉にわたしは一口綿菓子をかじった。
「苦い!」
 思わずわたしはつぶやいた。何と苦い綿菓子だろう。彼は笑いながら答えた。
「後悔で作ったから」
「え、こうかい?」
「わたしたち科学者の」
 黙り込む彼の顔を見つめた。確かに綿菓子は苦かった。そうか、確かに後悔の味だね。それから彼は静かに言った。
「それでは署名を」
 そうか、みんなが書いていたのは署名だったのだね。過ぎ去りしあの夏が甦った。あの日あの時、わたしが署名をし、そしてそれからすべてが始まったあの夏。もしも、過去にもしもが許されるなら、あの時もしもわたしが、わたしが。
「新型爆弾投下に反対する請願書なんだ」
「そうか」
 わたしは彼が差し出すペンをつかもうとした。けれどその瞬間綿菓子屋の屋台の灯りが消え辺りはまっ暗になった。わたしの手にはしぼんだ綿菓子だけが残っていた。苦い味の綿菓子だけが残された。

「大統領」
 ん?また声がした。声は隣の車輌から聴こえてきた。わたしは手探りで隣の車輌に移った。隣の車輌に入ると二つ三つ灯りが灯っていた。一番近くの灯りの下に少年たちの集団がいた。少年たちは何かを取り囲み、その何かに見入っていた。彼らは殺気立っていた。
 何だろう?
 少年たちに気付かれないように彼らの中心を見るとそこには木箱がひとつ。その箱の上に二ひきの虫がいた。カブトムシだ。ああ、カブトムシを闘わせてそれを楽しんでいるのだな。無邪気なものだ。しかし良く見ると一方のカブトムシには角がなかった。角が折れていたのだ。それでも少年たちは闘いを止めさせなかった。
「きみたち」
 わたしは少年たちに声をかけた。
「もういいのではないか、きみたち?もう勝負はついているだろう?」
 けれど返事はなかった。誰一人振り返る者さえいない。勝負に夢中で聴こえなかったのか?わたしはもう一度叫ぶように言った。
「なあ、きみたち。角が折れていてはもう勝負になるまい?」
 とその時、誰かがわたしの肩を叩いた。
「大統領」
 振り返ると軍服を着たひとりの男が立っていた。はて、誰だろう?と思っていると男は言った。
「わたしですよ」
 するとわたしは答えた。
「ああきみか。将軍」
 大統領と呼ばれたわたしはそう答えていた。例によって相手が誰かわかった。
「何だね、将軍?」
 将軍と呼ばれた男は辺りを見回した後、大統領と呼ばれたわたしの耳にささやいた。
「もはやあの国は壊滅状態です」
「うん、そうだね」
 大統領と呼ばれたわたしは答えた。
「ならば大統領」
「何だね?」
「あの国に」
「あの国に?」
 そして将軍と呼ばれた男は再び周囲を見回した後、大統領と呼ばれたわたしの耳に静かにささやいた。
「新型爆弾を使うまでもないと思われます」
「何?」
 大統領と呼ばれたわたしは耳を疑った。大統領と呼ばれたわたしは言葉に詰まった。突然少年たちの喚声が起こった。わたしは木箱の上のカブトムシに目を移した。
「しかし」
 答えようとして再び振り向いた時けれどもう軍服の男の姿はなかった。
 少年たちの喚声が止み、木箱を照らす灯りがふっと消えた。

「大統領」
 また声がした。同じ車輌からだ。声のする方角に目を移すとそこには金魚すくい屋があった。わたしは金魚すくい屋の灯す灯りへと歩いた。
「大統領」
 わたしを見るなり金魚すくい屋の店主は言った。客はひとりもいなかった。
「わたしか?」
 問い返えすわたしに男は頷いた。
「勿論。あなたですよ、大統領」
 わたしは男の顔をじっと見た。見覚えのある顔。男は陸軍長官Sだった。
「おお、きみか」
「大統領、あなたもひとついかがですか?」
 男は金魚のすくい網を大統領と呼ばれたわたしに渡した。見ると水槽には五匹の金魚が泳いでいる。
「金魚のお腹に文字が刻まれております」
「文字?どういう意味だ?」
「すくって見ればわかりますよ」
 大統領と呼ばれたわたしは言われるまま五匹の中の一匹をすくった。すぐに金魚を掌に乗せ、金魚のお腹を見た。そこにはこう記されていた。
 "hirosima"
 なに?男の顔を見たが男は黙っていた。大統領と呼ばれたわたしは急いで別の金魚をすくった。金魚のお腹を見ると、そこにはこう記されていた。
 "kokura"
 なに?これは。大統領と呼ばれたわたしは急いでまた別の金魚をすくった。金魚のお腹にはこう記されていた。
 "niigata"
 なに?おい、これは?わたしはほたる駅で見たカードのことを思い出した。トランプカードに書かれていた文字。すくい網はもうほとんど破れていたが大統領と呼ばれたわたしはなんとかもう一匹すくった。これで四匹目。金魚のお腹を見た。そこにはこう記されていた。
 "nagasaki"
「何だね、これは?どういう意味だね?」
 大統領と呼ばれたわたしは男に尋ねた。けれど男は答える代わりに言った。
「もう一匹残っております」
 すくい網はけれどもう完全に破れていた。
「もう無理だ」
 大統領と呼ばれたわたしがそう答えると、男は水槽に残った最後の一匹を自分の手で捕まえた。男はその金魚のお腹を見せた。そこにはこう記されていた。
 "kyouto"
 次の瞬間金魚屋の灯りが消えた。

「大統領」
 それからまた声が聴こえた。声は綿菓子屋の車輌から聴こえて来た。綿菓子屋の車輌に引き返すと綿菓子屋は既に消え、代わりにお面屋があった。客がふたりいたが店主は見当たらなかった。見るとたくさんのお面が並んでいる。正義の味方、怪獣、天使、悪魔、ミッキーマウス。わたしは何気なくひとつのお面を手に取った。それは虎のお面だった。すると突然声をそろえてそのふたりの客がわたしに向かって言った。
「大統領」
 一人は狐のお面を被り、もう一人は龍のお面を被っていた。わたしは相手が何者かわからず答えに困った。狐のお面の男が言葉を続けた。
「大統領、例の爆弾はどうなっておりますか?」
 すると龍のお面の男がその言葉に反応した。
「何ですかな、例の爆弾とは?」
 ふたりはじっとわたしを見つめた。
「大統領!」
 狐のお面の男と龍のお面の男は再び声を合わせ、沈黙を続けるわたしを呼んだ。
 何と答えればいいのだ?
 困ったわたしは顔を隠すように手に持っていた虎のお面を被った。するとどうだ!
「落ち着いて下さい」
 大統領と呼ばれたわたしの口が勝手にしゃべりだした。
「これが落ち着いていられますか?例の爆弾とは何ですか?」
 問い詰める龍のお面の男に大統領と呼ばれたわたしは答えた。
「新型爆弾のことですよ」
「何、新型爆弾?そうでしたか」
 龍のお面の男はショックを受けたように俯いた。
「それでどうなんです?」
 狐のお面の男が尋ねた。
「ええ、実験は成功しました」
「なんですと!」
 龍のお面の男が再び驚きの声を上げた。けれどその反応は何処か白々しかった。
「それでは、それを何処に?」
 狐のお面の男が尋ねる。
「あの国ですよ」
 大統領と呼ばれたわたしが答える。するとまた龍のお面の男が反応して叫んだ。
「なにーー!」
 けれど矢張りそれは何処か芝居じみていた。狐のお面の男にしても同じだった。お面を被っているせいだろうか?何もかもがお芝居のように思えた。そうだ、戦争も平和も、何もかも。ただ傷つき死んでゆく人々の痛みだけがお芝居ではなかった。あのテニアン島で死んだひとりの兵士。
 わたしは自分の顔からお面を取った。その瞬間お面屋の灯りが消えた。

「大統領」
 それからまた声が聴こえた。それは隣の車輌、わたしが元々座っていた最後尾の車輌からだった。移動してわたしは元の車輌に帰ってきた。
 バーーン!
 バーーン!
「大当たりーー!」
 車輌に入るなり威勢のいい声と少年たちの喚声が聴こえた。そこは射的屋だった。
「大統領」
 射的屋の店主がわたしに声をかけた。
「大統領、指令をお願いします」
「指令?」
 男はわたしにコルク銃を渡した。大統領と呼ばれたわたしはコルク銃を受け取った。男は標的の人形を指差した。
「あれです」
「あれ?」
 その人形は折り紙で出来た、あの国の人形だった。
「あれを狙えと?」
 大統領と呼ばれたわたしの問いに男は頷いた。
「大統領、指令をお願いします」
 男は繰り返した。
「しかし」
 大統領と呼ばれたわたしは言葉に詰まり手に持ったコルク銃を見つめた。
「大統領、みんな指令を待っております」
「大統領、指令をお願いします」
「大統領、指令をお願い」
「大統領、指令を」
 いつのまにか大統領と呼ばれたわたしの周りに少年たちが集まっていた。
「早くしてよ、おじさん。ぼくたち順番を待っているんだから」
 ひとりの少年が叫んだ。仕方なく大統領と呼ばれたわたしは恐る恐るコルク銃を構えた。わざと標的から外れるように。
「大統領、指令を」
 男は重い口調で催促した。
「早く、早く」
 少年たちが合唱した。
「だから、何の指令だね?」
 大統領と呼ばれたわたしは思わず叫んだ。
「・・・への投下指令ですよ」
 男の答えは少年たちの喚声にかき消された。
「何だね、よく聴こえなかったが?」
「おじさん、早く」
「おじさん、早く」
 少年たちにせかされ、つい大統領と呼ばれたわたしはコルク銃の引き金を引いてしまった。ところがコルク玉は。
 バーーン!
「大当たりーー!」
 そして折り紙の人形は倒れた。わたしはコルク銃を床に落とした。

 突然まっ暗になった。人々の気配は消え辺りはしーんと静まり返った。何という静けさだろう。さっきまで夢のように華やいでいた夜市。まるで夏の夜の夢。気付くと隣には車掌が立っていた。わたしは静かに尋ねた。
「もうお祭りはお終いかね?」
 けれど車掌はわたしの問いには答えず、いつものようにアナウンスを告げた。
「そろそろ発車の時刻でございます」

 
 (三十三)はーばーらいと駅

 まっ暗な夜市駅を出てしばらくすると、列車は街の灯りがぽつりぽつりと灯る場所に出た。列車は穏やかに進んだ。わたしは車窓に映っては流れ去るほのかな街灯りをぼんやりと眺めた。車掌がわたしのシートを通り過ぎる。その姿が列車の窓に映った。わたしは車掌へとゆっくり声をかけた。
「きみ」
 わたしにはどうしても尋ねたいことがふたつあった。ひとつは線香花火駅から走り出す列車へと飛び乗った時ちらりと目にした車掌の顔。もうひとつは巡洋艦へと積まれた荷物について車掌がつぶやいた『はちがつの、しょうねん』という言葉の意味。
 わたしの声に車掌は足を止めた。わたしに顔を向け、帽子に隠されたその顔の表情が不安そうに怯えているのがわかった。どうしてそんなに怯えるのだ?わたしが恐いのか?わたしはもう質問などどうでもいいと思った。逃げたければ逃げればいい。わたしはそれでも構わないと思った。答えたくなければ何も答える必要などないのだ。わたしは何も言わずただ黙って車掌を見つめた。すると立ち止まったまま車掌もまたわたしを見つめ返した。時が止まったような沈黙だった。
 そして車掌は静かに答えた。
「もうすぐ、わかりますよ」
「え?」
 わたしは言葉に詰まった。そうか、きみはわたしの心がわかるのだね。わたしは微笑んだ。すると少しだけ車掌も笑った気がした。帽子で車掌の顔など見えないはずなのに。不思議な微笑みだった。
「そうか、それなら結構だ」
 わたしはゆっくりと答えた。
「次は、はーばーらいと駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」
 そして車掌は静かに歩き去った。

 ザー、ザー。
 何処からか微かに波の音が聴こえた。波?遠くに一艘の艦の影が見えた。暗い夜の海の中に。海?
 いつのまにか列車は海まで来ていた。しかも列車は海の上を走っていたのだ!そういえばさっき車掌は次ははーばーらいと駅と言ったな。しかしまだ港の灯りは見えなかった。まだ駅までは遠いのか?わたしは暗い夜の海に浮かぶ艦の影を見つめた。
 艦の影は静かに直進し続けた。おや、もしかしてあの艦は?見覚えのある艦だった。おお、あれはあの巡洋艦!間違いない。確かにあの線香花火駅の後に緊急停車した埠頭で見送った巡洋艦だった。夜市駅へと遠回りしながら列車はあの巡洋艦に追いついたのだ。
 しばらくすると巡洋艦の進む先に島が見えてきた。列車は巡洋艦に追いつくと今度は巡洋艦を抜き去り、先に島の埠頭へと到着し停車した。後から来る巡洋艦を待ってわたしは暗い海を眺めた。
 穏やかな波が埠頭へと打ち寄せていたのも束の間、巡洋艦が近付くにつれ島の波は荒れ始めた。突然島のハーバーライトが一斉に灯った。ハーバーライトは夜の海を映し出した。打ち寄せる波また波。巡洋艦がゆっくりと島に近付いて来る。
 島。そうだ、夜の闇でわからなかったが今ハーバーライトに照らし出されたその島はわたしにとって忘れることの出来ない場所だった。そう、ここはテニアン島。しかし車掌ははーばーらいと駅と言ったな。なぜだ?気が付くとわたしの隣に車掌が立っていた。わたしは尋ねた。
「ここが、はーばーらいと駅かね?」
「ええ」
「でもここはテニアンなのだろう?それならこの駅は終着駅」
 けれどわたしの言葉を遮って車掌は言った。
「ここは地球上の、地図上のテニアン。わたしたちが向かっている終着駅テニアンは、辿り着けない、永遠に辿り着けない、永久のかなしみ」
 ボォーーーー。
 巡洋艦の汽笛が鳴った。とうとう巡洋艦が島に到着したのだ。車掌は沈黙しわたしは巡洋艦を眺めた。車掌はすぐに姿を消した。
 巡洋艦が島の埠頭に停泊すると島のハーバーライトは消えた。同時にはーばーらいと駅も消えた。島はまたまっ暗になった。
 すると何処にいたのか無数の男たちが突然埠頭に現れた。男たちは巡洋艦に乗り込むと、巡洋艦から荷物を降ろし始めた。荷物は次々と島に陸揚げされた。荷物を運ぶ男たちの間には張り詰めた空気が漂っていた。異様な緊張感。そう、それはまるであの線香花火駅の後に緊急停車した埠頭で巡洋艦に荷物を運び込んだ時と同じ。共通しているのは巡洋艦?いや違う、荷物の方だ。あの荷物、あれは一体何なのだ?
『はちがつの、しょうねん』
 ああ、またしてもあの言葉を思い出した。あの荷物について車掌がつぶやいた謎の言葉。すべての謎はあの荷物に隠されているのか?
「車掌」
 小さな声で車掌を呼んでみたけれど返事はなかった。陸揚げが済むと作業員たちはさっさと姿を消し、再び島は夜の闇と静寂に包まれた。後には穏やかな波の音だけが残された。
 いや待て。波の音に混じって何かが聴こえる。

「大統領」
 再び島の埠頭に打ち寄せる波が荒れ始めた。荷物を降ろした巡洋艦が動き出したのだ。はーばーらいと駅を失った列車も